ブルーロック281話を読んで考える。天才と秀才の違いと考察
ブルーロック281話、とても面白かった。
「なるほどなぁ」と思う部分もあったし、これは少し説明が足りないじゃないか?という部分もあった。
それについて掘り下げて考察をしてみたい。
天才と秀才は結果ではなく過程である。
どうしても目に映る結果から考えてしまうので、秀でた能力を持つ人間を天才だという認識になってしまう。
しかし、これは異なる。
天才と秀才の違いは結果に至るまでの過程でしかありません。
天才とはいわば「0 -> 100」までの過程が存在せず本人からすると当たり前であり無自覚で他者とは相容れないものである。
逆に秀才とは、「0 -> 1」が自分の中には存在しない。
よって天才から学習し、この「0 -> 1」を会得する。
その後、分析や努力を繰り返し論理の上で最大「100」まで至る。
もちろん本人の才能によって「100」まで至らずに「70」くらいで収束することもある。
例えば、潔世一についてもそうだ。
ブルーロック開始以前から認識していた「ゴールの匂い」。
成早によって指摘された「適応能力の天才」。
どちらも自覚はなく、会得するまでの過程は存在しないはずだ。
しかし、他者によって気付かされ自分の武器として認識している。
そしてブルーロックを通して、他者に天才性に触れ論理をアップデートし続け己を成長させ続けたきた。
それこそ超越視界もカイザーのプレーから着想を経て身につけたものだ。
この着想が「0 -> 1」であり、自分の中で再構築しているのが「1 -> 100」に当たる。
天才の才能は、全てを網羅するものではない。
天才と秀才について正しく認識することができると気になるはずだ。
では、潔世一は天才なのか秀才なのか?
答えは両方だ。
正しく言うのであれば、部分的に天才。
それ以外は烏旅人の言う通り凡である。
これは別に潔世一に限ったものではない。他のキャラクターたちもそうだし、きっとこれを読んでいる読者もそうだろう。
例えば今作中で無双しているロキだって同じだ。
確かにスピードという異次元の才能を持っている。これはサッカーのような広いフィールドで行うようなスポーツでは圧倒的な力になりえるだろう。
しかし、スピードだけで全てを解決できるわけではない。サッカーについて正直あまり詳しくないがそんな単純なスポーツではないことぐらいわかる。
だから、ロキですら他者から「0 -> 1」を会得して他の天才と競っているのではないかと考える。
もちろんカイザーもそうだろう。
「秀才」には「秀才」の世界一への覇道がある
天才に勝つことはできない。
これは真である。
もっと具体的に言うと、
天才と同じ分野で戦うのであれば、秀才は天才に勝つことはできない。
となる。
例えば、空間認識能力が凡の選手が潔と同じ空間認識能力で戦えばどうやっても負けるだろう。
どれだけの理論を積み重ねていたとしても天才には勝てないのである。
同等の才覚を持つ人間であれば別かもしれないが。
であるならば、発想を変えれば良い。
相手の天才的な部分以外で戦えば勝機は見えてくるのである。
もしくは自分の天才的な領域まで相手を引き摺り込めばいいのである。
作中では烏旅人が言っている「相手の強みと戦いにいってもしゃあない 弱点狙う方が勝つ確率はハネ上がる」が回答になるだろう。
現在の潔世一は自分の天才性で戦うことに注力しすぎている。
そのため相手の得意な領域まで入り込んで戦っているように見える。
これでは勝つ自分を思い描けないのは当然である。
世界はそんなに優しくない。
そしてここからは推測の域を出ないが、ノエル・ノア本人がこの「秀才」には「秀才」の世界一への覇道の生き証人なのではないのだろうか?
過去の潔世一への発言や279話のカイザーへの発言などもそうだ。
まだ見ぬ強者と戦うことで自分の秀才性に磨きをかけ、戦い方を学び、世界一であり続けているのではないだろうか。
この作品の根幹にあたる「エゴ」にもつながる部分だと思う。
ノエル・ノアにとって全ての天才が自分を世界一に育て上げるための餌に見えているのではないだろうか?
エゴイストとしての最終進化先がノエル・ノアだと考察する。
また、もし仮に上記が正しいのであれば絵心甚八の目的も見えてくる。
エゴイストの天才、ノエル・ノアを分析し実現性や再現性を世界の標準にしようとしている。
なぜか?
これはおそらくノエル・ノアを天才から引きずりおろすため。
國神へのワイルドカードもその一環だと推測される。