見出し画像

雨の日の羨望_木村彩子_7

 ふと、しぐれと弦楽五重奏をやっていたときの、しぐれを含む友人同士の何気ない会話を思い出した。
『あー。また雨。やだねーこの季節は。』
『この子も扱いづらいよ』
 友人の一人が自分のチェロを見て言った。
 しぐれは振り返りもせず窓の外を見ていた。
『でも、晴れてる日より好きだな』
 つぶやくように彼女は言った。わたしは無言で彼女の方を見た。彼女の横顔を、芸術品を見るようにしばらく眺めてしまったのを覚えている。
 しぐれは高校時代にわたしが密かに憧れていた、ただ一人の女性だった。
彼女の音楽は素晴らしかった。初めて彼女のバイオリンを聴いたときは、あまりの衝撃に絶句した。技術的なことだけではない。あの時、放課後の練習室で聴いたバッハのシャコンヌ。ずしんと重く、まっすぐ一点を目掛けて響く、深い音。たった十何年というそれまでの短い人生の中で、一体何を経験してきたのだろう。切なく、悲しく、絶望を感じさせるような音。それでいて、涙が出そうなくらいに美しく表現される(実際に泣いていたかもしれない)、交互に重なり合った旋律。本当に彼女が弾いているのかと耳を疑った。これが自分と同じ年の高校生が出す音だろうか。それくらい圧倒的だったのだ。
 あとから聞いた話だが、彼女の母親もバイオリン奏者だったらしい。その関係で幼少期から英才教育を受けていたとか。すでに当時、というより彼女が小学生の時の話のようだが、母親の知り合いか何かの伝手で、ミニシアターでやる映画の中の、「バイオリンを弾く少女」の役で映画デビューまでしていたらしい。(とはいっても俳優としての活動はそれきりだったが。)その癖、彼女は気取っていなかったし、むしろ自分に対する周りの評価なんか気にも留めていないようだった。
 彼女はいつも自分の世界を生きていた。
 わたしは、その孤高の彼女のようになりたかった。周りの目なんか一切気にせず、ただ自分の生きたいように生きる。成績や他人の目なんか関係なく、自分の音楽だけを貫いていく。しぐれはわたしからはそういう人に見えていた。

 先述の通りしぐれが舞い戻ってきたので、わたしはしぐれに押し切られる形で彼女との共同生活(?)を始める羽目になったわけだが、わたしの方もただただ迷惑だったわけではない。これまでの平凡でつまらなかった毎日が、一瞬でドラマのように展開していくような根拠のない予感に期待して、わくわくすらしていた。きっと彼女は、わたしをこの日常から引っ張り出して、これから始まる物語のヒロインにしてくれるに違いない。

#小説 #雨 #バイオリン #ドラマ #憧れ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?