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親の気持ち、子の気持ち

注:今回も写真と本文は関係ない。また、気持ちが溢れすぎてうまく説明できていない箇所があるかと思う。大変に申し訳ないことである。

今回も、架空の話をしようと思う。

私の母は、いわゆる教育ママだった。無理やりピアノを習わせては練習しないと言って30cmの物差しで私を叩いた。

空手が習いたかったのにバレエも習わされ、休日には突然強制的に母主催の茶道教室や華道教室が開催された。

私は本が読みたかった。本を読んでいると、勉強しないと言って怒られて、本の角で頭を殴られた。

あるときは、新聞を丸めた棒で叩かれた。叩かれる前、母が新聞を丸めた棒を作るのをただ見ていた。おぞましい時間だった。

思うに、母は、私のことを資産と考えていたようであった。周りから称賛されるために手間をかけている、そう思えた。

ある時、母親がすごくいいことを思いついた、と言わんばかりの表情でやってきた。「お金出してあげるから、あなた整形しなさい。ブ〇なんだから」

私は衝撃を受けた。〇スは否定しないが、これは平成初期の話である。今ならまだしもまだまだ整形へのまなざしは冷たかった。

「それで結婚して、子供の顔が違ってたらどうするの?」と疑問点を口にした。母はスッと無表情になり、私の部屋から出ていった。私は深く傷ついた。

おかしな遊びしちゃだめよ、結婚したらいくらでもできるんだから。などと言われることもあった。そう言っている母の表情を、心から汚いと思った。

信じられない話であるが、母は私に結婚相手を押し付けてきた。再度申し上げるが昭和ではなく平成の話である。

高校生の時、私の学業成績があまりにひどいので、家庭教師をつけてもらうことになった。有名な某大学院に通うその男性は、私の高校の先輩であった。まあそれなりにちゃんと教えてもらえていたが、母親のテンションがおかしかった。うきうき具合が半端ない。気持ち悪いレベルである。

それを勘違いしたのか、その家庭教師が、私が高校三年生の三月のある日、こういった。

「好きな人のために、専業主婦になって毎日味噌汁をつくるのって幸せだと思わない?」

きしょい。私はそう思った。

「思いません。先生がそう思うなら○○(その先生の内定先)で探したらどうですか?」

家庭教師の先生は怒りに顔をゆがめた。なんやねんこいつ。先生が帰った後、母にそのことを報告した。母は発狂した。

お前は馬鹿だ。なんてことを。こんないい話を。家から出ていけ。

母は絶叫し、泣き喚いた。そして寝込んだ。私は家にとどまった。

今から思えば、当時私は高校三年生で、受験したすべての大学に落ちた。努力不足である。

最大限好意的にとらえれば、その家庭教師は全部落ちた責任を取ろうとしたのかもしれない。ブ〇だが交際経験のない女子高生、資産価値は低くはない。(この文章を書きながら、無性にカァーッ、ぺッと唾を吐きたくなってきた。自室なのでやらないが)

しかし、本当に申し訳ないのだが、その先生のことは生理的に受け付けなかったのである。味噌汁作るてなんやねんなめとんのか。

そのファッ〇ンくそ野郎のことを、母はすごくすごく気に入っていた。「フェミ子(私)は損得勘定ができない。こんな頭が悪いとは思わなかった」と嘆いた。

専業主婦になって、毎日味噌汁を作るなんてやだな。心からそう思った。念のため申し上げるが、専業主婦を貶める気持ちは毛頭ない。私には無理だというだけである。

とはいえ私も相当のアホだった。当時、作家かイラストレーターになりたいと思っていた。毎日ジャンプの漫画を模写したり、似非エッセイのような駄文を書き散らしていた。勉強もしないし、若いうちにええ感じの人と無理やり結婚させとこう、と思った母の気持ちは0.05%くらいは理解できる。

しかしながら、私はどうしても自分で未来を切り開きたかった。勉強はあまりせず、テストで0点を取ったことすらあったのに、プライドだけはあった。

専業主婦が女の幸せと疑わない母と、わけのわからない夢にあこがれる私。わかりあえないのは火を見るより明らかだった。

浪人した後、私はようやく実現可能な夢を見つけた。浪人させてくれた親には感謝している。作家とイラストレーターに関しては、自分の作品をよくよく観察した後に、「これにお金は払えない」という客観的な評価を下し、ひとまず諦めた。

実現可能な夢は、母の思う将来とは真逆のものだった。あんまり説明したくないが、バリキャリの極致みたいなものである。高校受験以後まったく勉強していない状況だったので、家族が「こいつ何いいだすねんほんまに」と思ったのも無理はない。

ただ、私には勝算があった。中学生のころ、母に連れられてとある進学塾の入塾テストを受験させられた。知能テストみたいなものだった。それがたまたま良い結果だったのだ。どれくらいかというと、私は平均的な女性の身長なのだが、それをcmにした数値よりも少し高い数値が知能指数として換算された。(今となってはなんかのエラーだったと思う)

塾のスタッフは「お嬢さんの知能指数なら、望めばどんな職業にだってなれます」と絶賛した。めちゃくちゃ嬉しかった。当時、運動神経も悪く友達もできず、絵もそこまで上手ではなく、本を読むくらいしか特筆すべき点がなかった。

塾の帰り道、母は不機嫌だった。「K大の男捕まえて専業主婦になってくれたらそれでええのに。K女子大か、D女子大の英文科でええのに」母はそう言っていた。

しかし、このことは私にとっては救いだった。「望めばどんな職業にでもなれる」という言葉をなんども頭の中で反芻してはほくそ笑んだ。勉強はしなかった。愚かである。

進路を決める時に、母との軋轢は決定的なものとなった。私が選んだ進路は女子大の英文科とは程遠い物であった。毎日怒鳴りあいの喧嘩がつづいた。

女子大英文科を進める母と、なんか可愛くない感じの学部を選ぶ私。入学金を振り込むとき、母が「私は嫌なんだからね!」と言ってたのは忘れられない。

母は私によく服を買ってくれた。翻ってそれは、私から服の決定権を奪うということでもあった。外出する際、母の気に入らない服を着て外出することは許されなかった。カーディガンとデニムで外出しようとしたら、「そんな可愛くない格好で外に出ないで」と着替えるまで外に出してもらえなかった。世の中の多くの人は自分の服を自分で決めることができると知ったのは大人になってからのことだった。

いろいろと息苦しくて、摂食障害になった。たくさん食べては吐く、ということがやめられなかった。食べ物を粗末に扱うことに罪悪感はあったのだが、どうしてもやめられなかった。自分の自己決定権を実感するために、必要な行動だったのだと思う。私の辛さを母に気づいてほしかったのだとも思う。

私の摂食障害を、母は見ないふりをしていた。投資していた資産が思ったように育たないのが受け入れられなかったのだろう。(この摂食障害は私が実家を出た直後に快癒した。)

私が実現可能な夢(他者から見たら到底不可能な夢)のために大学院に行きたいといったとき、断絶は決定的なものとなった。

「そんな高学歴になっては、お嫁にいけない」母は号泣した。何日も泣き続けていた。

試験に受かり、進学が決まってからも、「お願いだからやめて、どんな手段を使っても妨害する」という意味の言葉を吐く母に、私はこういった。

「わかった、売春するね。体を売って、それでお金を稼いで生活するね。まだ20代だから、学費くらいは稼げると思うよ」

その言葉を聞いた母は、今までに見たことのない表情をしていた。絶望したのだろう。これまで大事に育てていた資産が、自らその価値を溶解すると宣言したのだ。

「なんて言ったらいいのかわからない・・・」と呆然と涙している母を、私はただ眺めていた。結局、学費を払ってもらえることになった。すまない。

とはいえ、奨学金とバイト代で、何とか生活できた。最初のうちは学費を払ってもらえたが、その後学費免除を受けることができた。とても助かった。

私が大学院に進学したすぐ後に母は深刻な病を得た。「あんたのストレスで私は癌になった」と罵倒された。返す言葉がなかった。介護は大変だった。学生生活最後の一年は、就職活動と卒業研究と重なり、本当に辛かった。正直、一年くらい記憶があいまいになっている。

母は病の床で、「あなたにはいろんなことをしてあげた。服を買ったり」と言ったときに、ついうっかり「私は嫌だったよ。よかったね、私が一番きれいな時に服を選べて」と言ってしまった。母はしばらくの間、絶句した。私はだまって、次の言葉を待っていた。長い沈黙の後、母は、「そんなこと言われたら、私、もう死にたい」とつぶやいた。

やってしまった、と思ったが、今となっては本音が言えてよかったと思っている。聞いてくれた母にも感謝している。

ものすごい幸運で、私は実力以上の就職先を獲得した。夢が実現したのである。(これに関しては指導教官のおかげだと思う。感謝してもし足りない)

就職が決まったことを報告したが、母はさして喜ばなかった。私への最後の言葉は、「フェミ子(私)、結婚してね」だった。

母の死後、私は婚活し、すったもんだの挙句結婚した。すったもんだについてはまた詳述したいところである。(配偶者はいいやつだが超絶不器用で表に出せないタイプの人である。)婚活は筆舌尽くしがたいレベルで辛かった。しかし筆舌尽くして表現したいところである別の機会で。

結婚式はしなかったが、私の家族と配偶者で食事をした。父は「かっこいいひとやなあ、お母さん生きてたら喜んでたで」と言った。そうかなあ。(なお、父は私が席を外していた時に「うちの娘、阿修羅みたいに、ものすごい気が強いですけど大丈夫ですか」とわが配偶者殿に言いやがったらしい。ゆるさねえ)

世界で一番憎み、そして愛したのは母だ。今もそう思う。配偶者よ、すまん。

後に、母もまた、その母(私にとっては祖母)にひどい目にあっていたと知った。母はきっと、私を愛していたのだろうと思う。しかし、その手法は間違っていた。母は正しい方法を学ぶ機会を得なかったのだ。私たちは愛し合い、そして誰よりも憎みあってきたのだと思う。

母はもうこの世を去ってしまった。就職した直後に母が他界したので、ほとんど恩返しができなかったことは私の人生最大の後悔である。母を思い出さない日はない。

母に傷つけられたことも、一緒にいて楽しかったことも、産んでくれた感謝も、すべて背負って私は生きていこうと思う。

再度申し上げるが、この話は架空の物語である。

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