「浮遊体」とは! 虫田痼痾
いきなりだが個人的な見解を言わせてもらうと、今の日本で「小説」を書けない人はいない。そもそも小説とは文芸において随筆でなく戯曲でなく詩でもない後発的なジャンルを示すものであり、物凄く乱暴に言ってしまえばルールのない文章作品=小説と捉えることができる。もちろんこれまで小説論なるものは多く交わされてきたし、読み手を意識した物語論及び構造論的な作法があるのも事実である。だが、そういったものを無視して尚成り立つのが小説でもある。叙事詩オデュッセイアとの対応関係を重視したジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」、視点の作法を逆手にとったアラン・ロブ=グリエの「嫉妬」。小説は歴史的にもそのような発想の転換により進化してきたのであり、文章であれば(あるいは文章でないものでさえ)、どんなものでも受け入れるだけの懐の深さと可能性を持っていると私は思っている。つまり「文章」さえ書ければ理論上「小説」は誰にでも書けるのである。にも関わらずこの世の中に「小説」を書く人間が何故こんなにも少ないのか?
悲しいことだが、大半の人間が小説に、そして文芸に興味を持っていないという事実はまずある。しかしである、私は大学の文学部で多くの作家志望の級友を見てきた。在学中に小説を書いている者も数多くいた。だが今、その中で小説を書き続けているのは何人いるか? 自分の知っている範囲では一人だけだ。さて、残りの彼ら彼女たちは、あれだけ偉そうに創作論を語っていた者たちは一体何処に消えてしまったのか? 字と文章さえ書ければ誰でも書けるはずの小説を、なぜ作家になることを夢見ていたはずの人間さえもが書かなくなるのか?
これも個人的見解になるが、それは文学が権威主義に侵され過ぎた結果だと思う。何やら作家という連中は小説を書けるということを高尚なものとして維持しておきたい節がある。まあ考えてみればそれも当然で、自分たちの飯の種が誰にでもできるものだとバレてしまえば彼らは職を失い、たちまち浮浪者になってしまう(特に作家という職業の人間は小説を書くこと以外に口に糊する能力を持っていない者が圧倒的多数を占める)。だから必死になって文学と権威を結びつけるよう工作を続けるのである。文学賞なんてその最たるものだろう。目に付いた小説書きに作家に足る才能があるというお墨付きを与え、お仲間に引き入れる。そうして作家とは少数の優れた人間だけが務められる権威ある専門職であると演出するのである。もはや彼らの仕事は小説や論評を書くことではなく、既得権益団体の保持なのである。一方で小説を書いていても運悪く彼らの目に留まらなかった多くの者は"やっぱり自分なんかでは作家になれないんだ"と「思い知らされ」、フェードアウトしていくように仕向けられる。それは「作家になれなかった誰かさん」の役を担ってくれる者がいないと権威が保てないからだ。それは神が威厳を保つために生贄を要求するのに似ている。だが皆さんも薄々勘付かれているとは思うが、作家というトロフィーが贈られるには実力よりもコネクションの方がはるかに重視されるのである。
以上が私のひねくれた目から見た現在の文壇の構造である。
「浮遊体」はそんな権威主義の怪物と化した文壇へ一撃を加えることを夢見て、私の大学時代の友人、自分の知る限りで唯一、小説を書き続けることをやめなかった同志と共に立ち上げた組織である。ちなみに私は作家を夢見ながらもサークルを立ち上げるまで、ほとんど小説を書いたことがなかった人間であった。しかし、これはある意味幸いだったのかもしれない。いつかは書きたいと思いながらも、在学当時の私の志向は哲学や芸術論に向かっていて、小説については課題以外で読むことさえ稀だった。だが大学を卒業してからようやく小説を読み潰すようになり、そこから更に時間を経て、遂に書くことに手を出すようになった。もし早々に小説を書くことに手を出していたら、私も文学の権威主義に毒され、かつての級友である「その他大勢」と同じ道を辿っていたことだろう。
さて、ここまで小説について悪口染みた言葉を並べ立ててきたが最後にこれだけは言っておきたい。
小説とは奥が深いものである。
今まで言ってきたことと違うじゃないかと思われるかもしれない。しかし私が言いたい"奥深さ"は決して教養からのみ生まれるものではない。いわば、その人の人間らしさだ。小説は書き手の化身であり、小説の奥深さとは人間そのものの奥深さに他ならない。誰にでも作れて、尚且つその深みは果てしない。そんな素晴らしい芸術分野は他にないだろう。
時には作品に対して上手いや下手という評価を下されなければならないこともあるだろう。しかしそれは末節の細工の話であり、小説の神髄はそんなところには存在しない。私はそんな瑣末なことには終始したくない。ただ人を惹きつける何かを表現したいという思いを忘れずに、この先も小説を書き続けたいと強く思っているのである。
ついでに言うと「浮遊体」は書き続けている人間にも書いたことのない人間にも一度筆を折った人間にも、いつでも等しく門戸を開いているつもりである。そして、作家連の中にもまだまだ腐りきっていない人間が混じっていて、そういった小説書きが正当に評価される日が来ることを願っている。