Track 07.『とある魔法』/オオヤケアキヒロ
暑い夏の夕方、空が真っ赤に焼けていた。
蝉の声と肌を剥がしにかかるような暑さにうんざりしていた。
夏生まれだからか体に刺さる灼熱は嫌いではない。
が、生理的に疲れて来るのはしょうがない。
とはいえ、まだ少しだけ家路に強く香る夏の息吹を愉しむ余裕はあったが、それでも帰ってすぐにシャワーを浴びてニプシー・ハッスルを聴きたかったし、実際にそうした。
そう言えば、俺がニプシーを聴くようになったのは、彼が自分の店の前で撃ち殺された後の話だ。
冷水を浴びていると、体を撫でられる感覚があった。
・・・まただ。
熱った体を流すための冷たい水流の中で、そいつは肩や二の腕を撫でる。
時たま、纏わりつくような愛撫と呼ぶに相応しい人懐っこさで鎖骨と胸を撫で、時たま陰部に手を伸ばして来る。いつも手は一人のものでは無かった。
抱擁や愛撫の気持ち良さは分かるのだが、どうにも流れ出た後の体液を思わせる生温かさのせいでそもそも嫌で嫌で仕方が無かった。それに加えて、その手からは不潔どころではない、もっと直接的に死を感じさせる温度と血膿を思わせる臭気と肌触りを感じた。
気持ちなんて良いわけがない。
だいたい心に隙間風が吹いたり嫌な生温かさが残る時にこいつらはやって来る。
一体何に俺を誘っているのか?知りたくも無かった。
蛇口を思いっきり閉めて、振り払うように浴室を出た。
急いで体を拭き上げてアイスコーヒーを緑茶で割ったものをグラスに作って、2回飲み下した。
卑しい程に喉が鳴った。
鼓膜を音楽に委ねたり、カフェインやニコチンを呑んでようやくそいつらの手招く気配が遠のく。
とはいえ、最近増えすぎているカフェインも、物思いに耽るためのニプシーやケンドリック、憂さ晴らしのコード・オレンジも、きっと奴らを呼び寄せているに違いない。
寝て起きたりして波が引く頃には、またどこからか聞こえてくる呼び声に苛まれる、またそんな日々の中にいる。
ベランダに出て外を眺めた。目の前の田園のさざめきが何だか俺を責め立てて、煙草は半分も吸えなかった。
煙を燻らせている時か寄り添うでも責め立てるでもない音楽が流れる時だけしか、俺は正常で居られなくなった。
酔っ払うなんてとんでもない!隙を見せたら、また血生臭い奴らが肩を抱きにくるのだから。おちおち俺をヤろうとする奴らの近くで酔うなんてありえない話だ。
追い縋る手を引っ叩き、振り解く日々にいる。もうとっくに疲れ切っている。
止めろ、構うな、その汚らしい手を、俺に向けるな。そんな言葉ばかりが浮かぶ。
奴らの顔なんて、直視なんてするわけがない。いや、相対なんてできる筈もない。
悪意と好意が寄り添うその手の主たちを見るなんて、一体誰が出来る?
そんな事ができるのは、もう殺すか殺されるかの距離になった時だけだ。
しかし、どうせいつか向き合わなければいけない日が来る。
本当はよく見知ったあいつらと。
その時は本当に殺されるかもしれない。
だが、それでも、だ。
七月最後の休みに諸用で実家に帰った。
その時も夕方だったから、カクテル用の柘榴のシロップを溶かしたような赤い空の下、裏の山でヒグラシが鳴いていた。
その日は両親が外出していた。頼まれていた書類を折り畳んだ封筒を食卓に置いた。
気が滅入る夏の夕方なのでもう帰ろうかと思ったが、倦怠感を感じたので冷蔵庫を開けて作り置きのほうじ茶を湯呑みに注いでぐいと呑んでから、椅子に腰掛けた。
無地のポケットシャツが暑さと自律神経の不調から来る諸々の老廃物たっぷりの汗でぐっしょりと濡れていた。
一人暮らしを始めてからというものの、偶に帰れば父が泊まって行けよとかもっと帰って来いよとよく言う。
それ以上に母はあれこれ土産を持たせてくれたり、普段より気合を入れた食事を出すようになった。
もう齢七十を超えた母の好意は、来年には逝ってから五年になる祖母を思い出される。俺はそういう重たい愛情に容易に見て取れる束縛や抑圧を嫌って家を出た事を思い出す。
それからは適切な距離感で接することが出来る安堵が産まれたが、まだ心配と援助を払拭できない焦りを、老いた父の腕や白髪を染めることをやめた母の姿を見る度に感じている。孫を見せてやりたいなとか、もうちょっと大学生活や就活を頑張れば良かったな、とか、そう言うありきたりの後悔も付け合わせのように追いかけてくる。
そしてそれは、今日みたいに気が滅入っていると引鉄になるんだ、自分でも目を背けたくなるほど醜い感情を引き起こすために、ね。
今回は嫌な気持ちが胸を押し潰すのを止められそうにない。ああ、煙草が吸いたい。
俺は二階に上がることにした。
窓を開けて煙草に火を点けた。
空はもう煙草の先端ほど赤くは無かった。もうすぐ紫になって、そのうち闇になる。
客人用の布団や兄弟二人分の雑誌やガラクタが整頓された俺が育った部屋は、もう俺の居場所ではなくなっていた。他県の大学に行っていた俺は帰って来てからしばらくは兄の部屋で生活していた。
孫を見せてやりたいと思えば、最愛の人との陰惨な別れを思い出される。若さをただ浪費していた過去を悔いるなら、友人や尊敬していた先輩とのみっともない離別と、どうしようもなく散らかった部屋で無力さに項垂れるしか無かった日々を思い出す。
思い出すのはこの家で起こったこと、H市で起こったこと、今の生活で起こったこと、どれも等しく忌々しい事ばかりだ。
そのこと自体も忌々しいのだが、俺が最も自分が醜悪に感じられて仕方がないのは、その裏にあった美しい思い出を蔑ろにしている自分自身と、そう思わざるを得ない後味の悪い結末ばかりであること。そして未だにそれを引き摺って先に進めない自分自身の姿こそ、だ。
今になって分かった事だが、みんな思い思いに愛や気持ちを俺に手渡そうとしていたのだ。
俺はそれを送るのにも受け取るのにもそう言う能力がないのとなんら変わらないほどに不器用すぎて、拒んだり壊したりしてしまう。愛に報いない事や仇で返すように傷付ける事が許される筈もない。どこにも誰とも一緒にいてはいけない気持ちにずっと駆られている。
何処にも居場所がないような気がする?そんなのは当たり前だ。逃げ続ける奴に居場所なんてあるわけがないのだから。
弱さのせいで破綻した関係、自分で汚した思い出、そんな物ばかりしか遺せない俺は生きる資格も能力も無い気がする。
愛は行動だから、そしてそれのせいで傷つけあう事もあるだろう。そう言うものなのだろうが、俺はそれが暴力にしか思えない時がままある。それに自分もそんな暴力を、拒み難い暴力を振るうことだってあった。
そんな悲しい応酬しか出来ない俺が果たして家庭を持った時に、俺はその負の連鎖を絶つ事ができるのだろうか?また新しい悲劇を生み出してしまうのでは無いだろうか?
因果を絶つことを考えるとき、俺はこうやって高いところで空に煙を吐き、足元を見下ろす。そうすると、俺の見下ろす先には時々血溜まりと人の輪郭を持った白線が現れる。確かにもうこれしか無いのかもな、とどこかで諦める声が俺には聞こえるんだ。
ミーン・ストリートという映画の冒頭で語られたように、そしてそれをニプシーが歌に用いたように、贖罪は懺悔では為し得ず、過去の上に成り立つ今生の営みの中でのみ清算される。俺に出来るのはせいぜい惨めなグラフィティと罪深い後味の悪さをほんの少しの期間地べたに残して舞台から降りる事だけなのかもしれない。
最早気の迷いとは言えない切実さを持った思考の波に追われている時、いつもあの血生臭い得体の知れない悪友が現れる。
“もう良いじゃん、楽になっちゃいなよ”
なんて囁きかけるような馴れ馴れしい距離感で。
今も俺の背後でじっと佇んでいる。
見守っているのか、俺を突き落とす機会を窺っているのか、繰り返しになるが、まだ姿を見たこともないが、俺はこいつがどこから来ているのか、だいたい知っている。
なあ、そうだろ?
「お前は俺の暗い過去から生まれたんだよな」
煙を吐いて、背後の気配に話しかける。
「お前は俺かもしれない。俺ももう、自分が何者なのかすらずっと分からずにいるんだ。お前が俺をどうしたいか知らないけど、たまには話すのもいいかもな」
もしかしたら、俺が相手するのをずっと待っていたのかもしれない。
背後で何か粘度の高い液体が沸き立った。どうやら細胞が分裂するように何かが活性化しているようだ、それだけは分かる。
悪意が背後で漲るのを感じながら、俺はもう一度だけハイライトの煙を胸いっぱい吸い込んだ。ああ、サイアク、とんでもない奴に絡んでしまった。今日で終わりかもな。もしそうだとして、しょうがない。こいつらが居るのも、今ここで声をかけてしまったのも自分で巻いた種だ。
部屋の入り口は背後、その前に奴はいる。逃げるならもう、目の前の窓だけ。
沸き立つ気配が消えた。震える手でハイライトを灰皿に押し付けて、動揺を押し殺しながら、そして悟らせないようにゆっくりと振り向いた。
俺は息を呑んでしまった。
そこに居たのは一人では無かった。痩せ細った老いた男女、タトゥーまみれの腕、髪をバックに流して後ろで結わえた白衣、縦縞のスーツを着た禿頭、丸顔に眼鏡、胸元に大きな腫瘍の出来たラブラドール、小さな背に美しいボディラインの美しい波打った長髪。
ああ、全部懐かしい、この部屋はとても子供部屋に入る人数ではないはずなのに。
もしかしたら万華鏡のように姿形を入れ替え続けているのかもしれない。ここはもう既に俺の部屋じゃ無いのかも。
もう一度会いたかった。どんな顔をして会えばいいのか、それ以前にどうすればまた会えるのか俺には見当もつかなかった、いや、正確に言えば逃げ続けていたと言うのに、向こうから会いに来てくれるなんて。
姿を見た瞬間、俺は赦された気分になった。
ああ、それにしても、なぜみんなそんなに血塗れなんだ?
そして、なぜ目玉が無いんだ?
なぜ眼窩から血を流して俺の方を向いている?
なぜ一言も発さないんだ?
並んだ客人の顔を見渡した。ゆっくりと、見渡した。
俺は赦されたわけでは無かった。
まだその時ではないのだ、そしてそれは永遠に訪れないのだろう、この苦しい時間を越えなければ。
「・・・勢揃いだな。誰かはいると思ったが、まさか皆んなとはな」
こんな形で再会するとは思わなかった、思いつく限り最悪の形だ。
「また会えたらいいなと思ってたけど、何もこんな形じゃなくても良かっただろ」
誰一人として話さない。
電気もない部屋、まだ真っ暗ではないといえ、その顔は笑っているのか恨めしく睨んでいるのかすら分からないが、どっちだとしても別に好ましいことではない。
「そうだよな、分かってるよ、俺のせいでそんなカッコしてるのは。心の底から悔いてる。なあ、もういいだろ、殺したいんならさっさと殺してくれよ!お前らなんて大嫌いだ!何でいつまでも纏わりつくんだ!俺は死ねないんだよ、自分で死んだらお前らに混じって並ぶだけだからな!」
暑い空気がどこまでも重たく、そしてどこまでも固く張り詰める。
言葉を運ぶ吐息が熱を帯びる。
鼻の奥が潤って来て、目から熱が迸った。
生の熱、俺の嫌いな温かさ。なのに抗い難い。
「せめて、せめて元の姿に戻れるように必死なんだよ。それでも何もお前らに返せやしない。なあ、もう疲れたよ、終わりにさせてくれ。最後にもう一本だけタバコ吸わせてくれよ。気に入らないなら吸ってるうちに突き落としてくれても、何なら八つ裂きにしてくれたって構わないから」
再び窓の方を向いて煙草に火を点けた。空は紫色だった。
夏に生まれて、怨念に苛まれて、夏に死ぬ。まあ、いいオチじゃないか。
最後の言葉、何が言いたいんだ?
吸っている時にはもう決まっていた。溜息と共に煙を吐き出した。
「ごめん、いつまでも愛してる」
大事な事は伝えた。最後の一服のつもりでもう一度大きく煙を吸い、吐き出した。
背後の気配はもう消えていた。
「ただいま、まだ居るんか?」
明るい母親の声が聞こえた。
「まだ居るよ」
出来るだけ、さっきまでの涙が悟られないように返事をした。
それからはまたいつも通りの生活。泣いたり、笑ったり、悩んだり、浮いたり、沈んだり。今日もまだ暑い。帰ってシャワーを浴びた。
また血の匂いがする。あの手が体を撫でる。
俺は払い除ける代わりに、肌の上を進む手の甲をそっと握り返してこう呟く。
「大丈夫だよ」
罪は懺悔では贖えない、か。
その通りだ。
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