「無題無力」 虫田痼痾
唐突だが私は三島由紀夫があまり好きじゃない。
三島は「国家防衛論」の中で"パワーレス"を気取ることを止めろと書いている。彼が言わんとすることが分からないわけではない。社会に生きる上で、現代はパワーレスを気取ることで様々な振る舞いの免罪符となることが多い。それはいわゆる新左翼運動が標榜する立場とも重なり、自然な成り行きのようであって、実は人々は作為的に自分にとって都合の良い立場を演じているのかもしれない。弱者が強者を虐げるという構図はすでにニーチェが考察していた通りだが、まさに現代日本のあり方はその極北とも捉えられる。
とはいえ、やはり私自身、パワーレスという立場と認識を捨てることは出来ないし、したくない。たしかにアウトラインだけを捉えれば、単にマイノリティを気取っているだけかもしれない。しかしながら、少なくとも自分は精神障害者であり、自殺未遂者であるということは事実だ。それらを除けば確かに多数派のつまらない人間かもしれないが、その部分だけは自らのアイデンティティと言っても差し支えないはずである。少なくとも自らの内に実害を持たずにマイノリティを利用する人間とは違うと自負している。
もちろん左翼勢力による間接侵略に抵抗するという「楯の会」の理念や自衛隊の国軍化という三島の思想については共感できる部分はある。そして自衛隊への体験入隊など、その思想の実現のために先頭を切って行動したことは素直に尊敬に値すると思える。しかしながら「社会契約論」的な社会構造への説明に疑問が噴出する現在において弱者と強者の関係は三島が考察するよりはるかにアプリオリで強固なものであると私は思う。
三島が自らの半生を綴った「仮面の告白」にもある通り、徴兵検査において第二乙種合格、いわば補欠要員にしかなれなかった病弱なアオジロが肉体を鍛え上げ、戦後自ら国家防衛の前線に立つ(しかも、あえて逞しい男の多い田舎で徴兵検査を受け、自らのひ弱さを目立たせ不合格になろうとした男が)。それはストーリーとしてはよく出来たものである。しかし、そこにおいて三島が近代文学者として良い意味で非常に特殊であったという視点を失ってはならない。
三島の肉体信仰は明らかにコンプレックスの裏返しだ。戦時下では肉体的な強さこそが第一であり、三島のような"詩を書く少年"は弱者であり劣等生だった。たとえ高名な社会学者「丸山真男」であっても戦地に赴けば、役立たずと叱責される対象なのである。
しかしながらその丸山が自ら志願して二等兵として出兵していたという事実は、三島の徴兵検査のエピソードと非常に対照的である。三島は丸山を知性主義の親玉として毛嫌いしていたが、三島と比べると丸山は一般的な見本である。自ら戦地に一兵卒として赴き、そこで戦争の悲惨さや日本の限界を身をもって知った。そして軍部、政府が権威を借りるだけの形骸化した天皇制を危惧した。だから弱者である一般市民に知識という武器を広め、より良い民主主義国家を目指したのである。
一方で戦場を生で経験しなかった三島は、戦後、天皇の人間宣言により拠り所をなくした日本を危惧した。そしてそれを守るために武士道精神の復興を目指して自らも肉体を鍛え上げ、結果として彼は弱者から強者になったのである。
もちろん三島の自らの理念を貫く精神力は立派の一言である。しかし彼は運も良かった。敗戦が濃厚になった折の入隊検査で結核と誤診断され即日帰郷となり、自ら戦地には赴かなかった。だが、だからこそ戦後、彼は理想的な生き方と死というものに全力で立ち向かうことができた。"戦後は余生"などという言葉は、死線を潜り抜け復員した兵士にはとてもじゃないが口にできないだろう。
そしてまた、齢30にしてボディビルに出会ったことも運が良かった。戦うためではなく、魅せるための肉体改造。今日明日を生き抜くためではない鍛錬。それゆえに三島は軍国主義の落とした影を気にすることなく、それを続けることができた。そしてその結果として彼は屈強な肉体を持って国家防衛という思想を突っ走ることができたのである。
三島は弱者から強者に生まれ変わった稀有な存在である。そして三島は戦後の貧弱な日本人は自分のように変わるべきだと思った。しかし、自分にできたのだから他人にもできるという考えは余りにも傲慢であると私は思う。多くの人間は弱者から強者には生まれ変われない。それは単に精神性の問題だけではなく、環境や気質的な問題も含めてである。そういった意味で三島は特別な人間だった。だからこそ自衛隊駐屯地での割腹自殺も驚かれこそしたものの、実際そこからは何も生まれなかった。大山鳴動して鼠一匹。世間の大多数を占める弱者は彼を理解できなかった。
こんな話を読んで、それは単なる根性なしのいじけだろうと思われても仕方ない。しかし自分は文学はパワーレスの武器だという立場を変える気はない。変われる人間は変われる素質を始めから持っている。地を這う虫はどう足掻いても大空を飛ぶ鳥にはなれない。しかしだからといってそれを気に病む必要はないはずだ。そして鳥に憧れることも、喰われないように鳥を牽制することも自由だ。私はそのために言葉を使う。それしか自分にはできないのだから。