ハードルは上げてくぜってハナシ/オオヤケアキヒロ
どうすればカッコ良く生きることができるだろうか?
30歳を超えてからずっとそれをテーマにしている。音楽、映画、小説、何でも新しい風を常に感じる事、格闘技をやり続ける事、そして言葉を紡ぎ続ける事、全てはその為である。とは言え、それが全てただのファッションで終わるのであれば、今すぐ辞めるべきだ思っている。カッコ良いとはそういうことでは無い筈だ。
カッコ良いとはどういう事だろうか、そもそもは超が付くほどの個人的な領域だ。それと同時に、生きていれば試される事になる事だと思う。であれば、個人のテーマは明確にしなければならない。矛盾しているだろうか?私はそう思う部分もあるし、そう思わない部分もある。少なくとも道具として考えた時、盾と矛で一対だから、それが矛盾という言葉の意味に当てはまるとは思わない。
人は矛盾と呼ばれる現象を幾つも内包している。左翼と右翼のような平衡よりは、ドレッシングやウイスキーフロートじみた液体的な不安定さの均衡が多いと思う。いつか混ざり合うか、それとも互いに遠ざけあったままなのかもわからないソレの為に人は苦しむのだろう。
今、自分の前のにあるそれらの一つ手に取ってみると、自己実現という名のラベルが貼られた容器に入っている。中身は理想の自分と現実問題だとか、そういう比重が釣り合ってない物ばかりだ。もしかしたら、味噌汁のように混じり様がない澱と上澄みのような物をなぜ混ざらないんだろう?と独りでうんざりしているだけなのかも知れない。
実体があるのか無いのか分からないもののくせに、いつだって擦れて持っていられなくなるほど熱くなる。文頭のテーマはその熱にうなされて見る水膨れの痛みや、魘される白昼夢の様なものかも知れない。カッコ良さというのは、そういう物に向かうべき方向性を与えて安定させる物なのだろう、そう信じて今までのやり方に拘りながら、同じような日々に新しい視界を求めている。
硬い質感や辛口の物が好きだから、ハードでシリアスなアートや立ち振る舞いが格好良いと思っている。ハードである為にはどんな物語を描こうと幾らナンセンスな表現をしようと嘘が無い事が必要不可欠で、ここで言う嘘とは、自分の思想や感情との乖離だ。文章表現として考えた時に、それは時代考証の甘さやトリックの破綻と等しいミス、詰めの甘さになる。
開高健の文学論を読むと
「ハードボイルドとは抒情だ」
と言う旨の発言をしていた。これは一つの至言だろう。何を語るか、敢えて何を語らないかは重要だが、美辞麗句ばかり並べたり思ってもない事を辻褄合わせで入れてしまうとそこで抒情は無くなってしまう。どれだけ素敵な人物でも何かしら取り繕うような嘘を感じてしまうと何処か信用出来ないのと同じ事だ。
つまり、虚飾ではない素直な自分を曝け出す事だけが求め続けられる。もちろん表現として敢えて嘘を入れるのは問題では無いが、プロダクションの不誠実さだけは絶対許されない事だと思うし、同好の士や応援してくれる身内、他ジャンルであろうと切磋琢磨しているライバルたちにはそんな強度の無いものは絶対メクれる。文章力は当然として、書かれた事柄にも誠実さは求められる。誠実に向き合えば道は開けるし、そうでなければ全て無駄になる、そう信じて言葉を繋げ、切り取り、物がを紡ぐ事を心掛けている。そうやってクオリティを突き詰める事、それが作家として、そして作品がカッコ良くある為に必要だと思っている。
誠実である事、それこそがカッコいいの条件である。誠実とは出来る事や出来ない事、自分の倫理や道徳を明確にする事、つまり等身大を突き詰める事ともう一つ、カッコ付ける事だと思う。カッコ付けると言えば等身大の逆のイメージではないか?いや、可能な限りの最善を追求すると言う事だ。正義や善悪は最近とてもデリケートな問題だが、それは誰かを裁く為の水準ではなく、個人における道徳や行動理念の持ちかただと思う。
繰り返しになるが、私が行っている創作の現状は私小説じみた感情の吐露であり、内容としても創作の動機としてもどこか懺悔めいた物がある。小説以外ではあまり自分語りをしたくないが、いつかは物語として書かねばならない事だし、エラそうに語った以上はある程度自分のことも話さねばなるまい。
小説で身を立てようと決心したのは今までダサい真似、人として終わっているような振る舞いをして来た業の清算の為でもある。性分として文を書く事が好きなので、好きこそ物の上手なれとやらで可能性や才能と言う物があるなら最大限使い切りたいし、それが30超えて生活もガタガタな社会の底辺に残された私には恐らく最後の人間的成長のチャンスとなるだろう。そう言いながら、存在しない外敵を勝手に作り上げたり、ゆらゆらと鬩ぎ合う理想と現実のギャップにまた脳を沸かしながら、夢と周りのカッコ良い人達の優しさにぶら下がって、不義理をして、自分で選んだ筈の苦行じみた劣悪な環境で悪態を突いている。おまけに同人の締め切りもアウトに近いギリを連発して、どの口が誠実を語るんだ、と言われても仕方がない。
何よりも幾人か大事な人を傷付けている。つい最近、約2年前ほどにだろうか、その時も同じ過ちをした。その時に自分の信じているものを振りかざしてしまった。正直、私にも言い分がある。何でもかんでも自罰・自責で飲み下すほど人間は出来ていない。が、他人がどうであれ過去、そしてそこに刻まれた自分の罪、醜さ、弱さは決して白くはならない。彼らには恐らくもう会えないだろう、と言うより、会う事が出来るとしても、顔を合わせる覚悟がまだ持てていない。カッコ良くなる為、カッコ良くある為と言いながら、ダサさと業は増えて行くばかりだ。失った物への餞をするには、トラウマや後悔と向き合い、かつ、後ろめたさを感じても妥協しない事である。何かを裁くのではなく、自分の背筋を正す為だが、未熟な私には内外に敵を見出している。まだまだ衝突と、業を受け止める必要がある。弱い自分を許すのは生きていく上で大事かもしれないが、開き直るのだけは辞めようと思う。それだけは少なくとも私の選んだやり方では許されないからだ。
浮遊体として二冊目の冊子を発行した際に後書きで、ラッパーはラップした事が現実になる、それを小説書きとしてやって行きたいと自分で言ったが、もう一つ大事な事がある。リアルに拘る事である。これからは一層曝け出さなければ行けないし、中身のない上辺だけのポジティブも許されないだろう。何かを贖いたい自分と何かに中指を立てたい自分、その間にある尊い事と不都合な事とを、少しずつでも物語として紡がなければならない。
私がとても尊敬している愛知県知立市にいるC.O.S.Aと言うラッパーの”La Haine,Pt.2“と言う曲がある。フランス語で憎しみを表す題を持つこの曲に
「空腹は何時か満たされていくのに、気高さは失うと取り戻せない」
と言う空虚な心をリリックがある。もう一方で過去と現在を歌った“GZA1987”と言う曲では
「リリシズムが原因でぶっ殺されも仕方ねーと俺は思っとるでよ」
と明確に今を生きるスタンスを言い放っている。誰しもがそうである様にただならぬ過去を持つであろう彼は尊い事も穏やかならざる事も包み隠さず、そしてひけらかさずに凛と立ち続け、嘘のない言葉と妥協のないサウンドプロダクトによって、カッコ良くありつづけている。こう言う事なんだ、こうしなければいけないんだ、と私は冷静になった。
これからはずっと何を言い、何を行い、そしてどれだけクオリティの高い物語が書けるか、試され続けるだろう。誠実でなければならない時が来たのだ。読者諸氏には、ぜひ遠慮なくカッコ良いかダサいかジャッジして欲しい。
辛気臭い話が続いたが、自分の作品に関しては随筆も含めて何かしらの接点を持たせようと思っている。言わばこのエッセイは来月への前フリとして読んで頂いて、鼻で笑い飛ばしてもらって構わない。
今一瞬に居てくれる人々、思い出を残して行ってくれた人々、そして読んで頂いた貴方に最大限の感謝を。
そして私の周りに存在するカッコ良いアート、とりわけ今回は、リアルでいる事を再び教えてくれたC.O.S.Aに最大限のリスペクトを。peace!