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016 経営理念をやや哲学的に説明する

経営理念の話をすると時々次のように言われることがある。

「なんで経営理念なんて持つの? そんな能書きを作っても売上が増えるわけじゃいなし…」と。

まあ、一理ある。

ほとんどの会社では、みな経営理念なんて考えずに仕事をしている。

ホームページや会社案内には「当社の経営理念は…」なんて書いてあるかもしれないけど、それを気にしている社員なんてほとんどいない。

そんな状況なら「経営理念」がどんな言葉だろうと業績とは何ら関係しない。

なのに「経営理念は必要だ」という声が上がるのは、なぜなんだろう。

そもそも経営理念とは何だろう。

これらの疑問に応えるため、今回は経営理念の本質について考えてみた。


経営理念は「言葉」である。

そもそも経営理念とは何か?

結論から言ってしまえば「言葉」に過ぎない。

身も蓋もない言い方だけど事実だ。

でも、言葉だからこそ大切とも言える。

このことを理解してもらうための「問い」を考えてみたので、1分くらい考えてもらいたい。

言葉はあなたの道具ですか? それともあなた自身ですか?

言葉というものは道具のように思えながら、実は我々自身かもしれない、そんな一面もある。

はっ? 我々自身!?

って風に疑問を持った人もいるだろう

でも実際のところ、我々は言葉のルールに従うことでしか人間らしく生きることはできないんだよね。

思考実験として、次の問いを考えてもらいたい。

生まれてからずっと人のいない空間で育ったとして、あなたはどんな人間になっていますか?

当たり前だけど、人は人の中で育ってこそ人になれる。

さらに言えば、言葉の世界で育つから言葉を使えるようになる。

言い換えれば、人間とは言葉のルールで出来ている、とも言えはしないか?

普段、我々は言葉を道具のように操っているように思い込んでいるけど、実は先人たちが少しづつ作り上げた言葉の世界のルールによって、操られている存在なのかもしれない。

経営理念とは内発的動機づけである。

言葉というものは、使い方次第で科学にも文学にも宗教にもなる。

でも、中身の無い薄っぺらな「音」か「記号」でしかない場合もある。

つまり、言葉というものは「音」か「記号」より、その中身である「意味」が大事なんだよね。

それは経営理念も同様だ。

と言うか経営理念こそ「意味」が無ければ、それこそ「意味」がない。

さて、ここでまた難しい概念が出てきた。

「意味」である。

普段何気なく使っている言葉だけど、改めて「意味とは何だろう?」と考えてもらいたい。

意味の意味は何ですか?

辞書的な意味はさておいて、私は、意味とは「過去の経験や知識と目の前の言葉が結びつくこと」だと考えている。

人は言葉と経験が結びつくと「ああ、そういうことか!」と腑に落ちる。

これが「意味」が伝わるということだろう。

「気づき」とも言う。

そして「意味」の伝わった人は、これまでの延長線上にない新しい行動へと進むことができる。

その意味では「意味」とは「内発的動機づけ」と言える。

経営理念も例外ではなく、本質的には「内発的動機づけ」のためにある。

経営理念は社長より上の概念である。

経営理念が内発的動機づけの言葉だとして「誰の?」が重要になる。

社長の?

社員の?

取引先の?

潜在顧客の?

おそらく全員の動機づけにならなければならない。

経営理念中心に社長や社員や取引先や潜在顧客がまとまるということだ。

…。

もしかしたら混乱した人もいるかな。

日本の場合、社員はウチ、取引先はソト、という思い込みがあるから、「経営理念が中心」と聞くと混乱するかもしれない。

でも、よくよく考えてもらいたい。

会社という「器」はもともとバーチャルである。

生まれつき「社長」「社員」「取引先」「顧客」なんて人間はいない。

これらは「役割」または「レッテル」でしかない。

じゃあ、そのバーチャル空間の中心に何があるのか?

それが経営理念である。

ミッション(存在目的)と言ってもよい。

日本国民の中心に憲法があるように、または、キリスト教徒の中心にハイブルがあるように、個々のビジネスの中心には経営理念がある。

つまり、経営理念は社長より上の概念なんだよね。

経営理念は標語ではない

経営理念は社長より上の概念って言うと、「理屈はそうかも知れないけど、現実は違うよね」って声が聞こえて来そうだ。

まあ分るよ。

何のために存在しているのか分からない会社。

どこに向かっているのか分からない会社。

社長の資産形成のためだけに雇用契約させられた集団。

残念だけど、今のところ「理念無き会社」の方が大多数だろう。

そんな会社でも経営理念と称する「標語」を持っていることがある。

でも、このような「標語」は、社長が理想とする道徳律を下に押し付ける言葉でしかない。

社長はよかれと思って持論を標語にしたかも知れないけど、この標語を中心にビジネスが構成されることは無い。

本質的に経営理念じゃないからだ。

哲学の構築には何年もかかる。

標語と経営理念は別物である。

理念は英語にするとPhilosophy、つまり哲学である。

だから別にホームページに掲げる必要も会社案内に記載する必要もない。

文章として掲げることが目的の標語と違い、哲学は「構築すること」それ自体が目的だからである。

経営理念とは、哲学の一種だから構築されるまで何年もかかるのは、当然と言えば当然である。

とは言うものの、子どもの頃から社会に対する疑問とか、自分にとっての理想などを考え続けてきた人なら、すでに経営理念は持っていたりする。

そういう人たちは「当社の経営理念は~」なんて仰々しいものを作らなくても、日常会話の中に経営理念がにじみ出ているものだ。

経営理念を成文化していないのに、社内がまとまっており、事業もうまくいっている会社の社長は、たぶんそれだと思う。

こういう社長なら、経営理念の言語化は割と簡単にできてしまう。

それでも、1か月くらいはかかるかな…。

「言葉選び」や「言葉と言葉の整合性」を取るのが意外と難しいんだよね。

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