父さん、母さん、本田透になれなくてごめん
劇場版「フルーツバスケット-prelude-」を観に行った。そもそもフルバのアニメは原作未読の状態で見ていたのだが、予備知識のなかった自分の想像は王道ラブコメにファンタジー要素ある感じの少女漫画だった。
だが見始めたら「なにこれ・・・めちゃくちゃ重いのだが・・・」となり、クライマックスまでメンタル削られまくったし、だからこそラストは自然と涙が流れ「みんな頑張って生きたね・・・」という語彙力皆無おじさんになった。キスシーンで震えるほど泣いたのフルバが初めてだったかもしれない。
そこまで感動した作品だったので劇場版は見に行かねばと思い、おじさん一人で映画館へと足を運んだわけなのだが、想像以上に若い女の子しかいない状況でビビりまくる。本編の激重いシーン&尊いシーンの圧縮ダイジェストにより冒頭から涙腺崩壊不可避だったけど、号泣してるおっさんがいたら鑑賞している他のお客さんのノイズにしかならんと思って静かにマスクを濡らしたのちょっと褒められたい気持ちである。
劇場版を通して思ったことは大きく2つある。
1つ目は主人公たちのように真っ直ぐ誰かに恋したことが自分にあったのだろうかという疑問である。本田透のように、草摩夾のように・・・彼らは自分たちが抱える大きな闇と向き合いながらも御しきれない想い人への気持ちと、時には相手も自分も傷つけ合いながら誠実に向き合っていた。もうその姿はアラサーおじさんには眩しくて尊くて涙せずにはいられなかった。「ああ・・・自分は恋なんて一度もしたことないのかもしれない・・・」と顔を両手で覆う。真摯に恋する彼らと自分の恋愛遍歴には5億光年くらいの隔たりを感じ、自分の今までの行いを悔いては恥じた。
2つ目は本田透のような人間になれなかったという親への申し訳なさ。フルバにおける本田透の偉大さは、主人公だからという理由抜きに語られるべき部分だと思う。もう神話なのか???レベル。その行動心理には透くん自身の過去や夾くんに対する気持ちなど、個人的な想いも多分にあるだろうが、あんなに人は美しく尊く生きられるものだろうか(それはフィクションだからなどという意見はゴミ箱にポイだよ)。劇場版で描かれた今日子さんが正気を取り戻して家へと帰宅した時の幼き透くんの「おかえりなさい」で泣かないやつこの世におるん??? もちろん透くんの人間力に到達するのはマジムリ学園だけども、ロクな成長を遂げずに気づけば三十路を超えてしまった自分のクズっぷりを改めて自覚して、映画を見ながら「父さん、母さん、本田透みたいになれなくてごめん・・・」と謝罪の気持ちでいっぱいになった。
そんなわけで(?)、アラサーおじさんフルバを見るはこれにして完結したわけだが、アナザーストーリーが収録された漫画が出てることを知って軽率に購入。読み終わった後、過去のトラウマを抱えながらも優しく生きる彼らを感じ取って泣いた。もう涙腺ガバガバおじさんの名を冠した気もする。
フルバのアナザーストーリにと一緒に、面白いと評判の少女漫画(うるわしの宵の月)も購入したのだが、それで恋愛について履修し直し始めようと試みたの客観的に見てキモすぎだった。結果的に何も学ばず、マッチングアプリ眺めてるし、ガールズバーで愚痴をこぼすダメっぷり。おそらく自分は今世で恋愛するの無理だと思う。もし、来世も自分が再び人間として生まれ落ちたなら、少しでも本田透のような愛と優しさと誠実さを持ち合わせて人と関われると良いな。
父さん、母さん、良かったら来世の息子にご期待ください。