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穏やかな静けさと秩序を守る 『本の読める場所を求めて』全文公開(36)

第7章 穏やかな静けさと秩序を守る 

ギリシャのアテネにあってもアメリカに帰ってきたように感じる織り込み済みの風景(プレディクタビリティ)や味にウッズはうんざりしたのだが、この感覚こそがスターバックスに価値を与え、何百万人もの人々を惹きつけるのだった。キャンパス近くにあるスターバックスに毎朝通う、シアトルのワシントン大学の学生は常連になった理由を、スターバックスが「とびきりに優れているから」ではなく、「なじみ深いから」だと説明してくれた。同様に、西海岸出身のある旅行者もスターバックスの予期可能性(プレディクタビリティ)を賞賛した。
ブライアン・サイモン『お望みなのは、コーヒーですか? スターバックスからアメリカを知る』(宮田伊知郎訳、岩波書店)p.62

途を制限してあげる

ミスマッチは誰にとっても不幸なものだから防ぎたい。しかし、それをゼロにするのは難しい。「本の読める店」とはこういう店だから、それを求める人だけ来てねと、どれだけウェブサイトや入り口横の貼り紙で説明してみても、華麗にすり抜けてしまえる人はどうしたって現れる。
たまにある場面。カウンターやソファで、お客さんたちはそれぞれ、本を読んでいる。静かな時間が流れている。そこに足音がして、ケラケラとした話し声の残響とともに扉が開く。おそらく開けた瞬間に、店内にあった静けさが外にふぁっと流れるのだろう。それを感知し、驚いた顔をして、声を潜めて、笑った顔で目を合わせたりしている。僕は厨房からつかつかと歩み寄って、「おしゃべりがいっさいできない店なんで」と言いながら両手を「止まれ」の形に広げて、制す。機嫌がよかったら「また今度よかったら」とでも言い足して、機嫌が悪かったり態度に腹が立ったりしたらそれっきりで踵(きびす)を返して戻る。言われたほうは、礼儀正しくだったり、にこやかだったり、しまったという顔をしたり、おどけて肩をすくめたりして、帰っていく。扉が閉まる間際くらいには、笑い声が聞こえてきたりする。
「誤った人たち」を帰すとき、僕は、向き直りながら、店内のお客さんたちに対して、「と、このように」とデモンストレーションをしているような気分になる。と、このようにして、静けさ、快適さ、秩序、つまりみなさんの読書の時間は、守られている、というわけです。
こういうこともある。入ってきて、つかつかと進み、席に着き、バッグからパソコンを取り出し、置く。まずそれが第一動作。そういう方を見かけると、僕はやはり歩み寄り、「パソコンほぼほぼ使えないですけど大丈夫です?」と言って、場合によっては案内書きの当該ページを開いて見せて「こんな感じになっていて」と伝えて、判断を委ねる。困って悩んだ顔をしている人があったら、「少し行ったところにスタバがありますよ」と教えてあげる。「がっつり仕事をされたいとかであれば、そっち行ったほうが絶対のびのびやれていいと思いますよ」

用途を明確に制限しているからこそできる対応だ。開店当初は、持続的でなければ会話も少しは可能だったし、パソコンの使用についての制限もなかった。おしゃべりが続くようなら、タイピングが響くようなら、その都度声をかけて、読書のための静けさが保たれるようにコントロールする必要があった。これはするほうも、されるほうも大変で、伝えるほうも根拠が弱いし、伝えられたほうも釈然としない。「ほとんどおしゃべりはできないんですけど大丈夫です?」と言われて「ちょっとならいいんでしょ」と思って入ってみたら、すぐに注意された。「なんだ、ちょっとも許されないじゃないか」というような。基準が不明瞭であること、個々の判断の余地が残されていることの弊害だ。
「おしゃべりはまったく不可」「タイピングは検索とショートカットキーのみ」にしてしまうと、伝えるほうも楽になったし、伝えられるほうも判断が簡単になった。それでもいいならいたらいいし、それだと楽しくないならば、別の場所に行けばいい。
余白や遊びがあることのよさももちろんあるが、明確に規定し、用途を制限することによって得られる「野暮な気楽さ」がたしかに存在する。



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