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長居するおひとりさまを歓迎できる店の条件 『本の読める場所を求めて』全文公開(24)

第4章 長居するおひとりさまとしての本を読む客
㉔ 長居するおひとりさまを歓迎できる店の条件

「ライフタイムバリュー」という言葉を意味もわからず使っているのが恥ずかしい。書き方も随所に脇が甘く、最初に挙げたのが「長居だがたくさん飲み食いをする方」の話だったから、「高単価なら構わないじゃないか」という指摘を受けたこともある。そうした粗のある文章だが、総じたところは今もなお同意だ。

しかし、ここで書かれているのは、これまで考えてきたおひとりさま問題をすべてひっくり返す態度のように見える。長居をされるとうれしい。まったく大歓迎だ。なぜ堂々とそう言えたのか。

ふたつのことがそれを可能にしていた。先に立つのは「うちは長居できる場所であるべきだという意志」で、それを支えたのは、「売上に困っておらず機会損失を痛く思わないでいられる状況」。

僕たちは、「ゆっくりダラダラいくらでも過ごせる場所にしよう」という気持ちを明確に持っていた。なぜなら、そうできる場所が好きだったから。シンプルだが強い原動力だ。

そして、その気持ちにいかなる迷いも痩せ我慢も入り込まずに済んでいたのは、特に困っていない状況だったからだ。お客さんは十分にあったし、人件費も大きくかけていなかったから、金銭的な余裕がはっきりとあった。僕個人に関していえば「もう目一杯、もうこれ以上無理」という感覚ですらあって、売上ではなく労働量に汲々としていたようなところがあったから、オーダーが少なければ楽だったし、満席でお断りするようなときも少しホッとしてしまうくらいだった。だからある意味、回転率と客単価を下げうる、客席稼働率も低くしうる「長居するおひとりさま」は、何かを損ねる存在どころか益のある存在ですらあった。とてもろくでもないことを言っている気がするが……(なお、僕は離れましたが、モヤウは現在も元気に営業を続けています。長居等についての見解は2012年当時のものである旨ご理解ください)。

これはもちろん、多くの「そうじゃない過ごし方のお客さん」の存在があってこそで、仮に大半のお客さんがコーヒー1杯で開店から閉店までずっといるというような状況になったとしたら店は成り立たない。でもそれは、そうなったときに考えればいいだけだった。とにかく、自分たちが見たい光景を欲望するのを手放さないことだ。

店は、計算式に則って売上を最大化しようとするものである一方で、計算式上ではとても合理的とは言えない判断も下せるものだ。非合理の部分にこそその店の精神のようなものが現れたりもするかもしれない。僕の場合は経営的な余裕がそれを実現させたわけだが、まずは意志や欲望だ。それがあれば、何かは始まる。

つまり、本を読む人への全面的な歓迎を明示する場所がほとんど見当たらないというこの事態が告げてくることは、その意志や欲望を持った店がほとんどないということなのかもしれない。

「そんなことはない。そうしたい気持ちは山々だ。しかしやはりきれいごとだ。そんな余裕はない。どこもギリギリでやっている」。そんな反応が、記事がバズったときにいくつかあった(「迷惑だ」と直接言ってくる人もあった。「うちの店もそう考えていると受け取られたら困る」ということらしかったが、カフェを代表するような書き方なんてまったくしていないのに……)。

そういう言葉をいくつも向けられていると、長居する人を大歓迎し続けたいというのは、やはりきれいごとにすぎないのかもしれない、まともな経営判断としてはありえないのかもしれない、そう思いそうにもなったが、「でも、そういえば」となった。「でも、もっとずっとたちの悪そうな長居をしそうな存在が受け入れられている場所がたくさんあるじゃないか」。その存在とは「パソコン作業者」であり、その場所とは「ノマドワーカー向けカフェ」だ。この人たちを受け入れることは、回転率や客単価の観点で見れば不合理な判断に見える。でも彼らには、いくらでも居場所がある。その状況を考えてみるにつけ、読書が被る不遇は、やはり意志や欲望の欠如だと断じてしまいたい。もっと言えば、本を読む人というのは、多くの人に、根源的な畏れのようなものを感じさせる存在なのではないか。自身の存立を脅かしてくるような、不穏な、不気味な存在なのではないか。

読書の居場所がこれだけ与えられていないのは、なにも「回転率」とか「客席稼働率」とか「客単価」とか、計測可能な性質だけが理由になっているわけではなくて、読書という行為自体が孕むネガティブな性質にあるのではないか。



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