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長居を前提にしてしまう 『本の読める場所を求めて』全文公開(46)

第9章 誰も損をしない仕組みをつくる
㊻ 長居を前提にしてしまう

たとえば「1時間ごとにワンオーダー制」でもいいはずだ。2時間半いるとすれば3オーダーはすることになる。フヅクエの場合ドリンクが700円からだから、それで2000円は超える。ただこの方式には読書の時間を損ねるポイントがいくつもある。まず、刻まれていく時間をいちいち意識しないといけない。その負荷を軽くするために自己申告ではなく店から声をかける方法もありえるが、お客さんからすれば、1時間ごとに店員に脅しをかけられることになる。いずれにしても、お客さんが細々とした判断を強いられる点がなによりもよくない。まだ読んでいたいか、まだ飲み食いをしたいか、まだ課金を重ねるか。気兼ねをせずに読書を満喫できる状態からは遠い。
それに、滞在を続けるためには飲食物を頼まないといけない、ということも大きな問題だ。「本の読める店」において問われるべきは「飲みたいか?」ではなく「読みたいか?」であるべきで、もっと読みたい人が必ずしももっと飲みたいわけではない。
また、この仕組みを採用するとおそらく滞在時間が短くなる。1時間おきに訪れる課金タイミングは、「ここで切り上げたほうが安くつく」という、帰るきっかけとしても作用するはずだ。「人が好きなだけ読書をしたいと思ったときに過ごしたい時間は平均して2時間半」だった。もしこの値が短くなるとしたら、それは好きなだけ読書はできなかった人、なんらかの外部要因によって押し出されて帰った人が発生していることを意味すると見て間違いない。

そもそも、誰のための仕組みだったか。「その人たち」だけで成り立たせようとするときに、なぜ短い滞在を含めて考える必要があるのか。
その場をさくっと使う人にとっても都合がよく、同時に長い時間過ごす人にとっても最適な仕組みがあるならば、それが採用されればいい。だが、さくっと利用する人への目配せが、長時間を過ごそうと思って来た人の滞在時間を短くするように機能してしまうなら、それは害でしかない。臆病な日和見(ひよりみ)でしかない(言ってみれば、大切な日に使ってもらうようなレストランをやりたいのに、「パスタだけでもOKです!」という看板を立てるようなものだ)。なによりもまず「その人たち」のことから考える。それが「その人たち」以外にとって都合のよくないものになったとしても、それは仕方がない。そこは捨てる。「本の読める店」が訴求しようとするのは、ゆっくり本を読みたい人だけだ。
繰り返すが、その人たちに必要なのは、い続けるか、もう帰るか、その判断の基準が「まだ読んでいたいか」だけになる状態だ。
ゆっくり本を読むということにおいて何をどれだけ飲み食いするかは副次的な項目だ。その時間を彩るアイテムとしてはとても有用だが、しかし主では決してない。飲みたいコーヒーを注文することに喜びがあるのであって、もう飲みたいわけではないコーヒーを注文することに喜びはない。だから、その決定が外部の事情によって強制されないこと。個々の欲望の通りにオーダーされること。い続けるか、もう帰るかの判断基準の中に、飲み食いをめぐる判断がいっさいかかわってこないこと。同様に、支払い額も判断基準でなくなること。課金のメーターが小刻みに動くことに気を取られないで済むこと。
飲食店からすれば、あまりにもきれいごとに聞こえるだろう。でも、きれいごとをちゃんと欲望しよう。
するとどうなるか。オーダーの内容にかかわらず、全員から2000円をいただいたらいいということになる。





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