フラジャイルなおひとりさま 『本の読める場所を求めて』全文公開(20)
第4章 長居するおひとりさまとしての本を読む客
⑳フラジャイルなおひとりさま
新宿のゴールデン街でごくたまに行く店がひとつだけあって、10年来の友人(以下「A子さん」とする)が立っている。
古くて軋(きし)む扉を開けて覗いたときに中にいるのがA子さんだけだとわかると僕はホッとして、席に座ると話したいことを話す。ただそれがずっと続くわけではなくて、どうしたって途中で新たなお客さんはやって来るから、僕は「僕に許された特別な時間は終わり」と思う。すぐに帰るのも現金なのでもう少しだけ飲んで、三人での会話が始まればそうするし、また別の人が来てA子さんがそちらにかかずらうターンになったら、取り残された者同士で隣の人といくらか話したりなどもする。頃合いを見て帰る。
つくづくこういう場所での過ごし方が下手。いろいろなものが固定されていない状況で人とコミュニケーションを取ることがとても苦手。客が僕だけだったときはA子さんがリソースを割く対象は僕しかいない以上、僕と話すことは自然なものになるわけだけど、そこに他の人が加わった途端に状況は一気に複雑なものになる。彼女はカウンターに立つ指揮者のような存在になる。指揮棒を振って、こちらの楽器を鳴らさせ、あちらの楽器を鳴らさせる。ときに2つや3つの楽器を同時に鳴らさせもする。技術だなあ、と思う。そういう中で「僕との会話のターン」を遂行しに戻ってきてくれたとしても、こちらにも遠慮が生まれ、もはや先ほどまでのようにはいかない。お隣さんと話すにしても、どこまでひとつの話題を引っ張るのが適切なのかもわからないし、「僕以外の人と話したいだろうにな」と勝手に申し訳なくなってしまう。
「不安定な状態でのコミュニケーションは不得手」という感じはなにも酒場のような場所に限ったことではなくて、知り合いの展示を見に行ったらその人が在廊していたときであるとか、映画館で知り合いと偶然はち合わせたときであるとか、「正式にセッティングされたわけではない会話」全般が対象で、特に望まれていないかもしれないと思ってしまうともうダメだ。「軽く人と話す」が難しい。
それはともかくA子さんの店だ。今のようなパターンはまだラッキーで、カウンターが埋まっていてテーブルに通され、先客と相席となることもある。こうなると本当にどうしていいかわからない。ずっと煙草を吸っているのもバカみたいだし、ずっとスマホをいじっているのも同じくらいバカみたいで、だからといって未知の人と話すことは大変だ。A子さんの助けがほしいが、忙しそうだし楽しそう。これは困った。
でも、いられる。
それが言いたかった。でも、いられる。居心地はかなり悪いが、それでも決定的に無理というものでもない。だいぶ苦しいが、まだどうにか大丈夫。どうしてだろうか。それは、指揮者であるA子さんと面識があることで、自分がそこにいても大丈夫な存在として認められている感じがあるからだ。守られているような感覚がおそらくここにはある。
これが、誰のことも知らない店だったらそうはいかない。誰にとっても知らない人でありながら一人でのうのうと過ごしていられるような胆力は当然、僕にはいっさいない。では二人ならどうかと考えてみると、自分たち以外が全員知り合い同士だったらかなり苦しいが、一人でいるよりはマシだろう。知り合い同士の割合が高いものの自分たちと同じような二人組が数組でもいるような状況であれば、ほぼ大丈夫になるだろう。
それぞれ、何がどう違うのだろうか。僕は「結託の度合い」の違いだと考えている。
ある場所で過ごす際の心地よさを支える要因には、「自分が受け入れられている感じ」や「いていいんだと思える安心感」など、いろいろとあるが、その根っこにある大事なキーワードのひとつが「結託」だ。
「おひとりさまは基本的には脆く弱いデリケートでナイーヴな存在である」というのが僕の実感だが、その内実を見つめてみると、結託の度合いが著しく弱いからこそ心もとないのではないのか、となる。これは裏に返してみれば、結託の度合いさえ強められれば弱い存在であることをやめられる、ともなる。これはおひとりさまに差す一条の光明だ。