自由を制限する 『本の読める場所を求めて』全文公開(35)
第6章 店を定義する
㉟ 自由を制限する
誰もが自由に過ごすためには明瞭なルールの制定が必要だ。
たとえば公園でキャッチボールをしたいとする。昨今公園におけるボールの使用はどんどん厳しくなっているように感じ、これこそが野球文化にとって最大の敵なのではないかと思っているが、グローブとボールを持って、出かけてみる。すると立て看板があって、「焚き火は禁止です」や「自転車の乗り入れは禁止です」といった言葉と並んで、「球技(野球・サッカー・ラグビー等)は禁止です」とある。「野球」とは? どこから「野球」になるのか。キャッチボールは「野球」なのか。バットの使用がいけないのか。試合形式でなければOKか。
確信が持てないから自治体のウェブサイトを見てみると、当該の公園では「ボール遊び(親子等のリクリエーションを除く)」が禁じられている模様。「親子等」の「等」に「友人同士」は入るのか。あくまで血縁や戸籍のつながりが必要なのか。では17歳の高校球児と元プロ野球選手の父親とのキャッチボールは、ありか。「やわらかいボールであれば可」という表示も見たことがあるが、軟式球はやわらかいという認識でよいですか?
判断のコストを利用者に丸投げしてくるのが曖昧な決まりごとの特徴で、それはこのように不自由だ。常識や良識や空気のようなふわっとしたものに頼るか、「軟式球は、やわらかい!」と断固主張して、貫くか。いずれにしても疲れるし、利用者同士の不毛な解釈論争にもなりかねない。
人によって解釈が分かれうる事柄(静けさとか、長居とか)ほど、提供する側が基準を明示する必要がある。その基準を面白く思わない人はよそに行ってもらえばいい。
スポーツも同じだが、ルールがあるからこそ獲得できる自由があって、フヅクエがもたらそうとしているのはそれだ。曖昧な自由でも手放しの自由でもなく、明文化され、規定され、制限された自由。
言葉は花束のように使う
ルールを提示していくときにややもすると陥りがちなのが、禁止や警告の身振りになってしまうことだ。
「おしゃべりは禁止です」「パソコンもほぼ禁止です」「さくっとお茶をするところではありません」「カフェだと思って入ると痛い目に遭いますよ」「警告はもう発しましたよ。あとは知りませんよ」
警戒が先立つと、いたずらに防衛的な姿勢をとってしまう。これは僕自身も店を続けていくなかで徐々に学んでいったことで、開店当初は否定形の言葉を無自覚に用いていた。「ご遠慮ください」「していただけません」「ダメです」「帰ってください」というような(ここまでは言っていないが)。
ただ、必要な守りだと思って選んだ言葉は、攻撃になっているかもしれない。僕が気にしやすい性質だということもあるだろうが、自分が対象となっているわけではない禁止の語句でも、それがそう発せられているだけで、何かを咎(とが)められた気になるところがある。店がとっている警戒の姿勢には、こわばりがある。それは言葉を受け取る人にも波及するのではないか。言葉にはそういう力がある。
さらにここでは、大切な認識が抜け落ちてもいる。この店が幸せにしようとしているのは「「今日はがっつり本を読んじゃうぞ~」と思って来てくださった方」だということだ。ミスマッチを恐れるあまり、関係のない人に向けて話しかけてしまっては本末転倒だ。言葉は、幸せにしたい人に語りかけるようにこそ使われるべきだ。「おしゃべりはできません」ではなく「約束された静けさを提供します」というように。
本が読みたくて来てくれた人に、「そうです、ここは「本の読める店」です。それはあなたの読書の時間を最高なものにするためにあるものです。ここでは静けさが約束されていていくらでも長居してもらえます。なぜならばこうやってあなたを守るからです。なぜならば、なぜならば……だから、本を読みたくて来てくれた愛すべきあなたよ、どうぞ豊かな時間を過ごしていってくださいね」と、そういう姿勢で案内書きはつくられている。
警戒心をあらわにしたネガティブな言葉ではなく、歓迎を表するポジティブな言葉に振りきることは、最大の防御にもなる。サービスの対象を明確に限定したいとき、対象圏外には「徹底的に言葉を向けない」というフィルターの掛け方はひとつ有用で、ただただ、本を読みに来てくれた人だけに言葉を向けることによって、そうではない人に、「まったくこちらを見てこようとしない。どうやら自分はこの店とはミスマッチの存在のようだ」と知ってもらうことができるし、「それではゆっくり本を読みたいときに今度来よう」という判断をしてもらえるようにも思う。言葉を明るくすればするほど、ネガティブな受け取られ方が減り、健康的な空間になっていっている実感がある。
言葉は、できるかぎり花束のように、笑顔で手向けたい。