雑に使えないようにしてあげる 『本の読める場所を求めて』全文公開(50)
第9章 誰も損をしない仕組みをつくる
㊿ 雑に使えないようにしてあげる
解けないで済むのならば、魔法は解けないほうがいい。
初めて行ったときは、コーヒーとトーストを頼んで、あとでカフェオレとケーキを追加して、ゆっくりゆっくり満喫した。店を構成するあらゆる要素に感動した店だった。すぐにまた行きたくなって、そしてまた行って……。するとだんだん、オーダーするものが減り、滞在時間は短くなっていった。よりリラックスして過ごせるようにもなったが、比例するように、特別な時間という感覚は否応なく薄れていく。「日常」に寄ってしまえば、店の魔法はどうしたって解けていく。雑な気持ちになっていたつもりはないが、自分への褒美やセルフケアとしての浪費という観点でいえば、それは明らかに弱いものになっていった。
「また行きたい」という強い欲望に歯止めをかけるものがなかったということがその一因だったように思う。「また行くこと」が優先されてしまって、「好きなようにいろいろ頼みながらゆっくりゆっくり過ごすこと」が、デフォルトではなくひとつのオプションになってしまった。雑な(という言い方がきつければ「簡易な」でもいい)使い方を一度してしまうと、贅沢な使い方を選択するためにはより強い意志の力による乗り越えが必要になる。戻れなくなる人もきっといる。
フヅクエは席料の仕組みがあることで、雑に使いづらい。前回は3時間がっつり本を読んだけれど、今日はあまり時間がないから30分だけ過ごそう、という選択をするインセンティブがない。「コーヒー1杯で1600円」というのは一定以上長く滞在するときにこそ真価を発揮するもので、30分のコーヒーブレイクにその金額を払うのは、おそらく多くの人にとってバカみたいなことであるはずだ。そうなると、たとえ「すぐにまた行きたい!」と欲望したところで、無反省に行動に移されてしまう前に検討が挟まれる。時間を確保して、ちゃんと行くことが選択される。「雑に使うフヅクエ」の味を知らずに済む(短時間の滞在であっても、払う金額等に不満が生じず、大事な時間として体験されるのであれば、その利用をされることに抵抗はないが。初めての方だった場合は不安は覚えるが)。
「ハードルが高いのが弱点。もっと頻繁に行きたいがまとまった時間が取れるときばかりではない」というような意見をいただくこともあるが、だから、これはむしろ強みで、使い方に余計な迷いを持ち込めない。「行く以上はいい時間を」という意識が、自分が過ごす時間それ自体に払う敬意を持続させることにもなる。その一度一度が大事にされた時間という体験の積み重ねは、魔法が解けるのを先延ばしにするはずだ。
デイリーユースしてもらおうなんていうことは考えてもいない。週一、月一、あるいは年に一度の、自分に許した特別な時間として経験されたい。
使い倒せないようにしてあげる
『ゆっくり、いそげ カフェからはじめる人を手段化しない経済』(大和書房)は西国分寺にあるクルミドコーヒーの店主・影山知明さんの本で(どうして著者がお店の人だと「さん」とか「氏」とかを付けたくなるのだろう)、客と店とが利用し合う関係性(Take/Taken)ではなく支援し合う関係性(Give/Given)としての「交換」の持つ豊かさが、クルミドコーヒーで実践してきたたくさんの事例を通して語られている。
贈り贈られることを連鎖させていく「受贈者的な人格」というのがキーワードのひとつとして提示されているが、この反対にあるのが「消費者的な人格」と言われるものだ。この人格のスイッチを押してしまうことになるから、ポイントカードや割引サービスの類いはやらないそうだ。「消費者的な人格」とはより少ないコストでより多くのものを手に入れようとする人格で、その現れは「合わせ鏡のようにお店の姿勢にも影響を与える。そっちがその気なら、こっちもこっちだ、と」。つまり、「お客さんとお店とが、それぞれに自己の利得を最大化させるべく行動選択する交換メカニズムが働く」(前掲書)。
フヅクエも、この事態をできるかぎり避けようとしている。特に恐れているのが、僕のうちに出現する「そっちがその気なら、こっちもこっち、だ」の心境で、健やかな気持ちで店に立てなくなったらおしまいだ。それをはっきりと感じたのが、支払い金額をお客さんにお任せしていた最初期に、何時間か過ごした方が支払った金額が220円だったときだった。その仕組みである以上は甘んじて受け入れるしかないのだが、4枚の硬貨を見たときに生じた「はあ!? ドトールかよ!?」という気持ちは強烈で、こうなるともうお客さんが怖くなっていく。疑心暗鬼になっていく。気持ちは荒む。行き着くところは店の荒みだろう。誰も幸せにならない。
それからの試行錯誤の末に現在の形になっているわけだが、今は本当にヘルシーだ。「掠め取られた」というような意識がどこにも生じないからこそ、店を大事に思ってくれている人たちに、より多く贈り返したくなる。お客さんひとりひとりの豊かな読書の時間を、より全身全霊で守りたくなる。
それはこちら側の話だが、お客さんの立場になっても、「消費者的な人格」のスイッチを押されないで済むことは、豊かな時間を過ごすためには大事だ。「できるだけ少ないコストで、できるだけ多くのものを手に入れようとする」。フヅクエでいえば、「できるだけ少ないコストで、できるだけ多くの時間を手に入れようとする」。仕組み上、2000円前後がいずれにしても発生する。その仕組みは平均滞在時間の2時間半を根拠として設計されている。附則として、4時間超の滞在の場合、時間に応じて席料が足される。もしこの附則がなかった場合、ものすごく長くいようとしたとき、そのお客さんのうちに何が生じるか。
席料が0円になるところまでのオーダーは済ませた(ドリンク2杯とケーキ、とか)。4時間、5時間、と経っていく。本音を言えばもう1杯飲みたくなってきたけれど、それはやめておこう。これ以上は払わずに済むのならば、それに越したことはない……。
そんなマインドで過ごすたとえば6時間というのは、はたしてどれだけ豊かで贅沢なものになるだろうか。自分をいたわるための褒美の時間として過ごしに来たはずなのに、「我慢をする自分」という姿が浮かび上がってはこないだろうか。さらにその途中で、仮に満席になって、入れない人が出てきているのを認識していたとしたらどうか。後ろめたさや気後れみたいなものが生じてくるのではないか。他の人たちが2~3時間で切り替わっていくのを横目に、5時間、6時間と滞在している自分……両者が支払う金額は変わらない……そこにはなにか、フェアではない、より多くのものを手に入れようとしている客、お得に使っている客、そんな自己認識が近寄ってくるのではないか。「使い倒すこと」は「楽しみ尽くすこと」とはまったく違う感覚をもたらす。誇りや自尊感情からはどんどん遠ざかってしまう。
この附則はもともと、パソコンの使用が解放されていた時代に加えた項目だった。パソコン作業者の滞在時間が、本を読む人たちよりも長くなりがちだった。朝まで平気でスプレッドシートやInDesignをいじっている我が身を省みてもよくわかるが、パソコンは時間を溶かす。そして、この静かで落ち着いた環境で仕事ができるならば2000円は惜しくないし、一日中いればコスパも悪くない、そんな「使い倒し」の感覚が人によっては生じうることに気づいた。こんなデータもあった。4~5時間の滞在よりも、5時間以上滞在する人の平均単価が低くなっていた。つまり、超長時間の滞在になると、贅沢な時間という性質は減って、居座ってガチガチに何かをやる時間になっていると推測できた。それはフヅクエが見たい光景ではなかった。そっちがその気なら、こっちはこっち、だ。決して使い倒させまい。
それがこの附則追加の背景だったから、僕自身、この仕組みは使い倒しを抑止するためのものだと長らく思っていたのだが、増えていく席料にも動じずに本を読んで過ごしていく人たちを見ているうちに、どうも本質はそこではないということがわかっていった。お客さんはある種の「フリーライド」の可能性をあらかじめ奪われる。どこまで行っても「お得」になる点が決してやって来ない。これ自体が価値だった。どれだけ長くいようと後ろめたさや気後れが生じないことが、彼らの時間の豊かさを守っていた。
なお、これまでの最長滞在時間は11時間だ。長く通い続けてくださった方が関西への転勤を前に、ラストフヅクエとして営業時間のほぼすべてを過ごしていかれた。8000円くらいになっただろうか。フェス最終日の明け方みたいな、さみしさと充実の入り混じった顔をしていた。完全に踊りきった人の顔。それは贈り贈られた人の顔だった。見送る僕もまた、きっといい顔をしていたはずだ。
存分に楽しみきりたい人だけがエンパワーされ続けること。それが、使い倒せない仕様によって実現されている。
と、ここでおしまいにできたらかっこいいのだが、最後にこの仕組みに疑義を呈する必要がある。現状の料金体系だと、4時間以上滞在する場合には1時間刻みで値段が上がっていくことになる。先に「1時間おきに訪れる課金タイミングは、「ここで切り上げたほうが安くつく」という、帰るきっかけとしても作用する」と一蹴した「1時間ごとにワンオーダー制」に限りなく近づく。これをよしとしている根拠は?
ここでスパッと切り返せたら一番なのだが、「そこはね~、あれなんですよ」と、言い訳めいた笑顔を浮かべることになる。完璧だとは言えない。ただ、4時間超の滞在というのは、その対象となる人は全体の15%ほどであることと、見通しを与える大まかな金額感を提示していることから、「そのへんはご寛恕といいますか、まあ、細かいことは脇に置いてね、存分に楽しんでいってくださいな!」というあたりを落としどころにしている。解決策として「6時間パック」みたいなものも浮かぶが、露骨にネットカフェのようになってしまうし、難しいところではある。この部分はいつか形を変えるかもしれない。