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「読む」の不当な不遇 『本の読める場所を求めて』全文公開(19)

第3章 街に出て本を読む
⑲「読む」の不当な不遇

読みうる場所はあくまでも読みうる場所にとどまっている。それがここまで見てきた結論だ。心地よく読めるか読めないかは、だいたい運次第。
読めるかもしれない。しかし状況によっては読むことが妨げられるかもしれない。
読めるかもしれない。しかし歓迎されていない空気をビシビシ感じるかもしれない。
読めるかもしれない。しかし読んでいる時間がまるで祝福されたものにはならないかもしれない。
読めるかも、しれない。
僕らに与えられているのは消極的読書可能場所にすぎず、「別に、読んでもいいけれど」としか言われない。笑顔で両腕を広げて「さあ、たーんとお読み」とは言ってもらえない。これは本をめぐる状況としてはいささか不思議でいびつなものに思えてならない。
本をめぐる動詞を考えてみると、それが浮き彫りになる。
たとえば「買う」はどうか。欲しかった本をAmazonでポチるのもいいし、超大型書店の圧倒的な物量を楽しむのも、個人経営の書店で見たことのない並びの本棚にときめくのもいい。無印良品のように専門ではないが書籍販売を手がけている店も多くある。どんどん書店が減っているとはいえ、購買の選択肢はまだまだ多く用意されている。
「知る」もまたそうだ。言うまでもなく、書店に赴けば既刊・新刊問わずおびただしい数の本の存在を新たに知るし、本の情報はSNSのタイムラインにも日々流れてくる。雑誌、新聞、電車の広告、本を知る機会は、オンライン/オフラインにかかわらず溢れるようにある。また「読書メーター」のような読書に特化したウェブサービスを使えば、「知る」はもちろんのこと、「記録する」も「評する」も「共有する」もできる。「出会う」に特化しているのは六本木の「 」で、入場料制という仕組みを導入して、本と読者の出会いの場を創発している。
本は「眺める」ものとしても魅力的なアイテムだ、ということは前にも書いた通りだが、「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」のピンク色の表紙の文庫本だけが並べられた「文庫ギャラリー」の光景は圧巻だったし、有名なブックデザイナーが作品展を開いたら話題になる。「泊まる」だってある。池袋の「BOOK AND BED TOKYO」と「箱根本箱」はそれぞれ「泊まれる本屋」「ブックホテル」と銘打った夢のような場所だし、丸善ジュンク堂書店は「丸善ジュンク堂に住んでみる」という宿泊ツアーを開催している。
購入した本は、「並べる」や「飾る」も訴えてくる。世の読書離れなんて噓なのではないかと思うくらい、あらゆる家具店が本棚を扱っているし、「本屋B&B」は家具店と協働し、店内の本棚がどれでも買えるようになっている。「本のある生活」を楽しむためのブランド「BIBLIOPHILIC」のウェブサイトを見に行けば、種々雑多なブックスタンドやブックエンドが見つかるし、しおりやブックカバーなど、「彩る」アイテムにも事欠かない。「持ち歩く」ためのトートバッグなんかもある。
「持ち歩く」といえばKindleのような電子書籍リーダーによって無数の本を持ち歩けるようになったし、Kindleといえば「Kindleダイレクト・パブリッシング」や「BCCKS」といった出版サービスは「出版する」敷居をどんどん下げてくれている。「書く」そして「発表する」ことは、ブログサービスなどの充実によって本当に誰にでも開かれている。紙の本をつくりたいと思ったら、ネット印刷サービスで誰でも容易に同人誌やZINEを発行することができる。そしてそれを「売る」。「文学フリマ」の盛り上がりは年々高まっているように感じる。それは「集まる」でもあり、「TOKYO ART BOOK FAIR」をはじめとするブックフェアや「本屋博」、一箱古本市など、作り手、売り手、読み手、買い手がその日限りで集まる催しの数はどんどん増えているのではないか。人は集まり、そして「話す」し、「聞く」。読書会は日本中でおこなわれているし、聴衆の前で本を紹介するビブリオバトルも活況のようだ。また、著者や訳者が出演するトークイベントも書店その他たくさんの場所で開催されている。こういったリアルな場は、本好き同士の「つながる」機会にもなっているだろう。
このように見てみても、本をめぐる状況というのは日増しに楽しく充実したものになってきているように感じる。一昔前と比べてもずっと多様なものになっているのではないか。
しかし、これだけたくさんの動詞が出てきたにもかかわらず、なぜか「読む」は登場しなかった(「なぜか」もなにも恣意的ではあって、書見台やクリップライト、読書のための枕等、「読む」を助けるグッズはありますね……)。本とかかわる商品や場や催しやサービスの中に、「読む時間」そのものに光を当てたものは極端に少ない。これは不思議でいびつで、いささかグロテスクではないか。まるで本というアイテムに「読む」という機能なんて備わっていないかのようにされている。本を読むという、実に単純で基本的な欲求がこれだけ応援されないことにはさすがになにか訳があるのではないか。
本を、読む。こんなシンプルなことが、どうして放っておかれているのか。あるいはここでもやはり「読む」がただ軽く見られているだけなのか。「一人でやっててくださいよ。簡単でしょ?」ということだろうか。でも、それが簡単なことばかりではないという現実にも多くの人は気づいているはずだ。快適な読書の時間を担保してくれる何かがあったら気持ちがいいという想像をしたことがある人だって、少なからずいたに違いない。
想像はされても、その領域に手を付けるプレイヤーがいない。それが「読む」が与えられた状況だ。
誰かが、家ではない場所で本を読みたいとき、それは基本的にはどこかの場所を使って一人で過ごす、ということになる。つまり、「おひとりさま」という存在になるということだ。ここに考えるヒントがあるかもしれない。次の章では本を読む客、「おひとりさま」についてしばらく考えてみたいと思う。


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