「わからなさ」の芽を摘む 『本の読める場所を求めて』全文公開(34)

第6章 店を定義する
㉞ 「わからなさ」の芽を摘む

喫煙者の僕は、煙草に関するサインに目ざとい。店に入ると、テーブルに灰皿が置かれているかいないか、いないとしても、煙草を吸っている人がいるかいないか、いないとしても、どこかに灰皿が重ねられたりしているかいないか、注意が行き届くようにできている。禁煙だとわかっても、外に灰皿があったかどうかははっきり覚えているから、あった場合、吸いに出てもいいということだな、と楽な気持ちになる。しかしどこにも見当たらない場合、たとえば少し席を外して街のどこかに設置されている灰皿まで行って吸ってくることが、店にとって別に構わないことなのか、それともやめてほしいことなのか、わからない。何度も通っているうちに、勝手がわかってきたりすることもあれば、店の人と顔なじみになって「ちょっと外に出てきてもいいですか?」と言えるようになったりすることもある。明示されていない事柄については、徐々に知るか、勇気を出して質問をして知る以外に手立てがない。一般的に一見さんは不利な立場に置かれる。
フヅクエは、これを解消しようとする。馴染みの人も初めての人も、同じ安心の中で過ごしてもらえるようにする。そのために、言葉を尽くす。
お客さんが席に着くと、白湯をお持ちしがてら、「案内書きとメニュー」(別丁1ページ参照)の紙束をお客さんと正対する位置に置く。まずはこの場を十全に理解し、「わからなさ」の芽を摘んでいってください、というわけだ。そもそも「本の読める店」とはなんなのか、静けさのこと、長居のこと、喫煙のこと、席の移動のこと、読書以外の過ごし方のこと……。過ごすにあたって、あるいは過ごしている中で生じうるたいていの疑問に対する答えはすでに書き込まれているはずで、初めて来た人であっても、これを読みさえすれば、「こういう場合はどうしたらいいのかな」「こういう過ごし方はありなのかな」という不安を感じることなく、過ごしてもらえる。
とはいえ、それにしたってこの案内書きは長い。文字数にして約1万2000字。正気の沙汰とは思えない。ほとんど強迫的な長大さだ。説明にここまでの言葉数を使う店を、僕は見たことがない。他の追随を許さない「野暮さ」だと思う。
新宿駅にある「ビア&カフェ ベルク」は好きな店だが(フヅクエを始める前、びっしりとメモを取りながら『新宿駅最後の小さなお店ベルク』を読んだ。名著)、一見すると、勝手がよくわからない。オーダーはどうすれば? どの席を使えば? 片付けは? 初めて来ると少し戸惑いそうなものだが、どうしてだか「なんとなくわかる」。目に見えない秩序やリズムがそこにあるのを感じられる。これまでおびただしい数の人が繰り返してきた行動が、流れる空気に轍(わだち)のようなものをつくっていて、それを追えばいいような、そんな感じがある。
実際には他の人の動きがレクチャーとして機能しているのだが、見様見真似で同じ動きを繰り返してみることで、長い歴史の中に自分も心地よく組み込まれてまた未来がつくられていくような、今この瞬間にとどまらない、より大きな時間の流れを感じさせるものが、あの場所にはある。刻々と、ベルクという場所が生成され続けていく現場に立ち会っているような、そこにまた自分も加担しているような、そんな気持ちにさせるものが、あの場所にはある。そこでの過ごし方を徐々に理解していくという過程を経ることによって、この場所に流れてきた時間への敬意を獲得させていくように設計されているように思う。それを僕は美しいと感じる。そしてそれは「粋」だと感じる。
ベルクのように、言葉に頼らずとも伝わるべきことがちゃんと伝わる、その格好よさがある一方、野暮も極めれてみればひとつのスタイルだ。フヅクエにとっては、粋であることより「本の読める店」を確固たる強さで成立させることこそが大切だ。本を読みに来た人たちの全員が、とにかく楽に、のびのびと、自由に過ごせること。


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