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第9章 誰も損をしない仕組みをつくる 『本の読める場所を求めて』全文公開(44)

第9章 誰も損をしない仕組みをつくる
㊹誰も損をしない仕組みをつくる

私は今、ソファに深く埋もれるように座り、本を読んでいる。傍らのテーブルに置かれているコーヒーのことはもう長いこと忘れている。飲み物や食べ物だけでなく、他のお客さんや店の人の動きの気配もうっすらとした膜のようにひとつ後景に退いて、今の私は目と手とページになっている。本の中におります。次から次に起きる出来事に意識は全部持っていかれていて、すっかり肩入れしている登場人物たちがこの先どうなっていくのか、それだけが気になる。ハッピーエンドであってほしい。ページをめくると、左側に大きな余白が現れた。章が終わった。それで意識に区切りが軽く打たれたのか、久しぶりにコーヒーのことを思い出し、口に運んだ。すっかり冷めている。それはそうだ。でもおいしい。おいしいコーヒーは冷めてからもおいしいものだね。この場所に来て、どれくらいの時間が経っただろうか。それがどれくらいであっても一向に構わない。今日は気が済むまで本を読むと決めていたのだから、気の赴くに任せて、ただただ読書を楽しもう。

あれをお出ししたのは3時間くらい前だったろうか。まだ残っているのか、すでに飲み終えているのかは知らないし気にもならない。「すっかり夜になったし、お腹減ったりしないものなのかな」とたまに思ったりもするが、視界の端に映っているその姿は微動だにしない。今はとにかく読書に没頭しているのだろう。僕はそれを、好ましい、うれしい思いで見る。見るというか、あまりお客さんのほうを見ることはしないので、その存在をときおり思い出しては、「読んでる読んでる~!」と思う。
気がつけば席は大方埋まっていた。どの方も来られてから2時間以上は経っているだろうか。今日もすごくいい時間が流れている。この人たちにとっても有意義で満ち足りた時間になっているのならば、本当にうれしい。「さあみな、どんどん読め!」と心の底から思う。今はオーダーもないから、僕も本を開こう。

 * * *

おいらがこのコーヒーを注文したのは何時何分だったっけか。ちゃんと時間を見ておくべきだったか。メニューには「2時間ごとにワンオーダーをお願いしております」と書かれていた。しかし何時においらは来たんだったっけか。もう2時間になるだろうか。そろそろ何か追加で頼んだほうがいいかもしれない。しかし「2時間ごとに」というのは、要は4時間いるなら2杯頼んだらいいという理解でいいんだよね? 別に3時間経ったところで次の飲み物をオーダーするのでもいいっていう認識でオーケー? でもその場合って、2時間から3時間にかけての1時間のあいだ、「あいつ頼むのかな、頼まないでこのまま居座るつもりなのかな」とか思われたりするのかな? 考えすぎか。でも気になるといえば気になる。まだ飲みたいわけではないけれど、頼んでおいたほうが無難か?
だいぶ、混んできたな。「混雑時の長時間のご利用はお断りする場合があります。皆様に心地よく過ごしていただけますよう、他のお客様へのご配慮・ご協力をお願いいたします」ともあるけれど、どこから「混雑時」になるのかな? そしてもうその「長時間」に該当する身なのかな? 「お断りする場合」というのはあちらから言ってきてくれるのかな? 「ご配慮・ご協力」とはすなわち、帰れということなのかな? それとも追加オーダーをすればリセットされるのかな? 今おいらがここにいることを、店の人は歓迎してくれているのかな? それとも、とっとと帰れよとか思っているのかな? さっきからそんなことばかり気になっていて、文字を追ってはいるけれど、本の中身が全然頭に入ってきていないな?

あの人もうとっくに、2時間どころか3時間いるんだよな。どう考えても追加してほしいんだけど、説明を見てなかったりするかな。それとも見たうえでこのまま頼まないで居座るつもりなのかな。だとしたらずるいよな。ずいぶん厚かましいものだよな。注意するのってけっこうストレスなんだよね。言わせないでほしいよね。でもそろそろだな。なんて言おう。「頼むか帰るかのどちらかにしていただけませんか?」とか、角が立つよな……。
あーあ、満席で入れないお客さんが出ちゃった。あの人とかあの人とかもうずいぶん経つんだよな。ドリンク1杯でよくそれだけ粘れるよな。盗っ人猛々しいというやつかね。そろそろ帰ってくれてもよさそうなもんだけど。そうしたら次の人を入れられるんだけど。「ご配慮・ご協力」って書いてるのに誰もしてくれないとか、この社会はどうなってるのかね? 他者への関心とか薄すぎじゃない? しんどいわ。やっぱり言いに行かないとな。


「その人たち」だけで成り立たせる


お客さんも店も、誰も損をしないことだ。店を続けていくためには、矛盾を抱えない形を構築することが肝要だ。どこかに無理があると、結局は全員が損をすることになる。店は、もてなしたいという気持ちや喜んでもらいたいという気持ちをガソリンにして、ある程度は走っていけるだろう。若ければ体力もあるから無理も利くだろう。でもそれだけで続けていくことはできない。ガソリンだとばかり思っていた「気持ち」は、アクセルを踏む右足でしかなかった。売上こそがガソリンだ。ガソリンがなければ車は動かない。
それならばと、たとえば席数を増やす。これまで余裕のある席の配置だったのが、肩が触れ合わんばかりとなり、落ち着かない場所になった。
たとえばイベントを打つ。これまでは本を読みたくなったらいつでも行けると思っていたのに、最近は毎週のようにライブやトークイベントをしていて、行きたい日に行けなかったりする。
たとえば、おしゃべりが解禁される……。静かだからこそ本を読みたい自分にとっては意味がある場だったのに、今では「本に囲まれたカフェ」でしかない。写真をパシャリ、愉快にけらり。悲しいけれど、さすがにもうめったに行かなくなるだろうな。
苦渋の変化を余儀なくされ、その結果、本来もてなしたかったはずのお客さんは離れていく。お客さんの顔は次第に入れ替わっていく。パシャリ、けらり。ただ消費されているだけで、誰のことも幸せにできていないように感じる。だんだん、誰のために、なんのために店をやっているのか、わからなくなる。でも続けることが大切だと、踏ん張る。それでも売上の不足は補いようもなくなって、行き詰まる。諦める。店を畳む。
どこかに無理があると、結局は全員が損をすることになる。

この場所が幸せにしたい人。こんなふうに過ごしてもらいたいんだよなという過ごし方。「あ、この人たちみんな好きだな」と思える状況。それだけで、店を成り立たせたい。理想的な状況が、店にとってどんな矛盾や犠牲も孕んでいない状況にしたい。
それは「きれいごと」だろう。だが、きれいごとを欲望し、追求することから始めなかったら、なんのための事業なのか。
フヅクエにおける「この場所が幸せにしたい人」、つまり「「今日はがっつり本を読んじゃうぞ~」と思って来てくださった方」、その人たちだけで、どうやったら成り立つだろうか。その試行錯誤の結果が、案内書きで見ていただいた通りの、現在の料金システムになる。「オーダー内容に応じて席料が変動する」「滞在時間が4時間超になるとさらに席料が上乗せされていく」「定価以上を払いたい場合は好きな金額を上乗せすることができる」。よそでは見たことのない、おかしな仕組みだ。
この仕組みはどのようにつくられ、そして過ごす人に対して何をもたらしているだろうか。






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