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インストールしてもらう 『本の読める場所を求めて』全文公開(42)

第8章 おひとりさまが主役になる
㊷ インストールしてもらう

おひとりさまが多数派を占めていようとも、一人で来て一人で過ごすという点では、他の場所に一人で行くことと変わらない。
一人で初めての店に入るのは不安や緊張を伴うものだ。小さな店であればなおのことで、そのときそこにあるのはこわばった身体だ。実際、SNSでフヅクエに来られた方の感想などを読むと「最初は緊張したが」や「最初は落ち着かなかったが」といった言葉を見かけることはしばしばある。一人の人が多数派で、一人で過ごすことが歓迎されている店だと頭ではわかっていても、そうなる。それをいかに最初だけで終わらせるか。いかに迅速に、リラックスした、しなやかな身体を獲得してもらうか。
すでに述べたように、それを実現するためのひとつの道具が案内書きだ。「馴染み客」というのは「店のことは十分に知っている」と感じられている状態にある人、という言い方もできると思うが、何度も通わなくとも、一度しっかりとこれを読むことで、一見さんも十分に知れる。すると馴染む。迷いや不安をなくすことができる。
さらにそこに書かれている言葉は、淡々とルールを伝えるだけの無味乾燥なものではない、ノイズにまみれた、血の通った言葉になっているつもりだ。意味伝達だけが目的であればもっと効率のいい書き方はできるはずだが、ここで目指されているのは花束を手向けるように言葉を使うことだ。すべてが「あなたを歓迎する」の意に収斂するような、そういう言葉。それは、お客さんをひとりひとりの人間として迎える姿勢を伝えることでもある。匿名の存在として扱われる気楽さは否定できるものではないが、豊かで滋養のある時間を過ごしたいときにされたいのは、機械的な冷たい扱いではないはずだ。生身の歓迎の言葉に触れることで、読む人のうちにぬくもりのような気持ちが生じるとしたら、それはとてもいいことだ。
盛大に狙いを外していて、大半の人が「さむ~」と思っていたら空恐ろしいことだが、「最初は緊張したが」に続けて「メニューを読んでいるうちにリラックスできた」「店の考え方を知れてのびのびと過ごせる感覚になっていった」というようなことを書いてくれる人は大勢いるから、きっと、思い違いではないと信じたい。
この案内書きの書かれ方は、また、読む人の理解を信頼するからこそでもある。この場所にやって来る人を知性のない存在だと考えていたらこうは書けない。たいていの店がそれで済ませるように、箇条書きで終わりにするはずだ。そうしないでうだうだと書いてくるということ自体に、読む人は、知性を信頼されているという感覚を得るはずだ。信頼されて嫌な人はいない(「長時間にわたる席の占拠は他のお客様のご迷惑となりますのでご遠慮ください」の注意書きから溢れ出ていた信頼のなさを思い出したい)。
初めて入る店で感じる心細さは、もうなくなっているはずだ。文章を通して伝えられる「あなたをこそ歓迎する」というメッセージ。それを十分に受け取ったとき、人は、談話を介することなく、店との結託を果たしている。


「独り」ではなくなる

快適に本を読みたいと人が願うとき、同じ空間に居合わせた存在は基本的にリスク因子でしかなかった。にぎやかな会話、あるいは荒い手つきでの仕事や勉強が、いつ始まってもおかしくない。偶然にも本を読むのにちょうどいい環境になっているときに湧き起こる思いは、「このまま何もなく過ぎてくれよ」という、望みの薄い弱々しい祈りのようなものでしかなかった。他者の存在は、なければないほどにいいものだった。居合わせた他者が読書を勇気づけてくれることなんて、まずなかった。
しかし、「本の読める店」においては様相が異なることに、少しすると気がつくことになるはずだ。この場所にいる他者は、目的を同じくした存在だ。自分がそうであるのと同じように、他の人たちもどうやら、「ゆっくり本を読んで過ごしたい」という欲望を抱えてここに来ているらしい。見渡せば実際に、自分と同じく本を開いて黙然と読んでいる人ばかりだ。この人たちも自分と同様に、この時間の平安を享受し、そしてその持続を願っていることだろう。一緒になってこの時間を成就させようとしている。そう感じられるはずだ。
これがネットカフェのようにブースで区切られていたり、あるいはパーテーションで仕切られていたりしたら、そういう心地にはきっとならない。フヅクエは、人と人がすっぱり切り離されているわけではなく、地続きに他者がある。すると隣の人や他の人がまったく無関係な存在にはならない。パーソナルな過ごし方が守られながら、同時にたしかにパブリックでもある。
読書好きの人ならば、街中で本を開いている人を見かけて親しみのようなものを感じた経験が、一度はあるのではないか。期せずして見つけた本を読む人の存在に、異国の地で同胞を見つけたときのような気持ちを覚えたことがあるのではないか。そればかりが起こる空間。今日このとき、この場所で本を読む、それを欲望してやって来た人たちが今、集まっている。そうたしかに信じられるとき、居合わせる他者の存在は、噴火の可能性を常に感じながら無力だと知りつつも手を合わせて鎮静の持続を祈るしかない活火山のようなもの、つまり自身を脅かしうる存在ではいささかもなくなり、ある種の同志のような、共犯者のような存在に変わっていく。不思議な親密さのようなものが場に生じて、「みんな」のような感覚が立ち現れる。
それはおそらく、野球場で、映画館で、コンサートホールで起こっているのと同じもののはずだ。これらは、ライブの場であるということと並んで、同じ欲望を持った人たちが同時に居合わせる場であるということに強い意味があると思う。みな自分と同じものを目的にこの場に集まっている、という感覚。それがうっすらとした連帯を場全体に与える。独りではないという心強さ。ある種の公共圏のようなものがそこには立ち上がっている。
「本の読める店」はその読書版だ。ここでは、「読書の公共圏」とでも呼んでみたくなるような磁場がつくられる。読書をする人同士が、顔を見合わせることも言葉を交わすこともないまま、互いを勇気づけ合う、肯定し合う、敬意を表し合う、そんな空気ができあがる。「ともにある」の感覚はここで、強く太く大きなグルーヴになるだろう。



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