#自宅フヅクエ 『本の読める場所を求めて』全文公開(55)
第10章 見たい世界をきちんと夢見る
55 #自宅フヅクエ
2020年3月末に始めた取り組みが「#自宅フヅクエ」だ。参加者は読書の時間の始まりや途中に、ツイッター上でこのハッシュタグを添えて「今日はこれを読みます」「今はこんなものを読んでいます」というような投稿をおこなう。ただそれだけだ。
開催時間は便宜的に12時から22時までとし、毎日開催している。日々たくさんの人が、読む本や、その時間のおともにする飲み物やお菓子やつまみの写真を一緒にアップしてくれている。
先立って「フヅクエ」の再定義がおこなわれていたことが、この取り組みを始めるにあたっての障壁を取り除くことに一役買っていた。そのときまでの長いあいだ、「フヅクエ」というのは場の名前だとばかり僕は考えていたが、これまでにやってきたことを煎じ詰めてみると、それは、「ただでさえ楽しい読書をもっと楽しくするための活動全般」だということがわかった。
「会話のない読書会」も「読書日記」もそうだし、ウェブサイト上でのいくつかの活動もそうだった。たとえば「今月の福利厚生本」という、毎月1冊スタッフからリクエストがあった本を買って渡しながら、その本を読みたくなった理由であるとかを聞いてその会話を文字起こしする企画。それから僕が最近買ったり読んだりしている本を、どの書店でどんなふうに買ったか、どんな場所でどんな状況や気分で読んでいたかの文章を添えてアップする「最近買った本・読んでる本」。また既出だが、ひとの読書生活・読書史について話を聞くインタビュー企画「ひとの読書」。これらに通底するのは、読書感想文や書評という形を取らずとも、「本をめぐる時間」についてのおしゃべりや文章それ自体に、「読書は楽しい」を発信する力を十分に持たせることができるのではないか、という考えだ。
また、友人の音楽家nensowによる1時間1曲のアンビエント・ドローン作品『music for fuzkue』のリリースや、フヅクエの選曲による10時間以上におよぶSpotifyのプレイリストの公開など、「本の読める音」と銘打って読書の時間を彩る音楽を提供することも、フヅクエの活動になった。
その中で「本の読める店 フヅクエ」というのは、もちろん活動の最大の中心だが、それでも、「フヅクエ」のひとつの表現の形、という位置付けが妥当だと思うようになった。「「本の読める店 フヅクエ」は「フヅクエ」の実店舗」というところだ。
そんな考えに至ってすぐの時期に、感染症の世界的流行がやって来た。国や自治体から外出を控えるよう要求された市民は長い時間、家の中にいることになった。店舗をはじめとする商業施設もまた、休業や短縮営業を余儀なくされた。フヅクエももちろん例外ではなく、しばらくのあいだ閉めていた。そんな状況下でフヅクエにできることはなんだろうかと考えて思いついたのが「#自宅フヅクエ」で、家の中での読書の時間を(ほんの少しかもしれないが)イベント化することで、その読書がより楽しく充実したものになることに寄与できないか、というところだった。
参加しようとハッシュタグを覗くと、タイムライン上に次々と「それぞれの読書の時間」が共有されていくのを目の当たりにする。それは「世界にはたった今も、自分と同じように読書を楽しんでいる人がいる」という事実を受け取ることでもある。たしかに存在する他者の気配を感じることで生じる「ともにある」の感覚、静かで穏やかな連帯。それはまさに「本の読める店」が店舗空間内で実現してきたことだった。バーチャルな読書の公共圏とでも呼べそうなものが、ここで生まれている感覚がある。
今は、その体験をもう少しリッチなものにするために、参加すると地図上の任意の点にやわらかな明かりが灯るようなサービスをつくろうとしているところだ。「今もどこかで誰かが本を読んでいる」ということを、世界中に点在する読書の灯火によってさらに可視化させる企てだ。
ところで自宅での読書をより豊かなものにするための手伝いをすることは、「本の読める店」にとって場の価値を弱めるおこないだろうか。「行かずとも十分だ」と思わせてしまう危うさがあるだろうか。むしろ「#自宅フヅクエ」に参加することによって、少しだけイベント化した読書のよさ、ひとりきりでするものだとばかり思っていた読書を「ともにある」時間として過ごすことのよさ、それを知ってしまった人が増えれば増えるだけ、「そのことに専念できる場所」を、これまで以上のビビッドさで欲望する人が増えるのではないか。
今回の世界的な自宅生活を経て人は、「場所」がいかにリッチなものだったかを知った。レストランが提供している価値は料理だけではなかった。それだけであれば、テイクアウトの味気ない容器で食べるのでも同じ満足を得られるはずだが、全然そうではなかった。他のテーブルの話し声や気配やキッチンから聞こえる調理の音や漂う香りや、座席から見える景色、そういう全体がレストランの体験だった。トークイベントが提供している価値は話される内容だけでは全然なかった。ただオンライン配信にすれば代替できるというわけではなかった。やはり居合わせた人たちの存在、今たしかに目の前に憧れの作家がいるという事態、そういう全体が体験だった。また、書店の価値は、映画館の価値は、等々、あらゆる分野で、場所の価値は再確認された。
人は必ずリッチな体験を求めてしまう。「#自宅フヅクエ」によって、「読書をもっと楽しく、もっとリッチに」の輪が大きくなり、広がるならば、「本の読める店」に対するより具体的な欲望を持つ人を日本各地に生み出すことになるはずだ。
「本の読める店」のスターバックスになりたい
1971年にシアトルで開業したスターバックスコーヒーが日本上陸を果たしたのが1996年。最初の店舗は「銀座松屋通り店」で、2020年3月末時点で店舗数は1553にまで増えている。世界中で一日あたりいったい何人がスターバックスのコーヒーを買うのか見当もつかないが、数字はどこかにある(本社とか)。
一方で、本社にも出しようのない数字もあって、僕が考えたいのはこちらのほうだ。僕にもコーヒースタンドを営んでいる友人がいるし、気に入ってよく行くコーヒーショップもいくつかある。僕はどこかで、「それらの店はスタバがつくった」と考えているふしがある。スタバが広がっていったことで、エスプレッソドリンクのおいしさやサードプレイスと呼ばれる場所の大切さといったことが浸透していき、たくさんのフォロワーが生まれた。そして同時に、アンチとまでは言わないが、「もっとおいしくできるのではないか」「もっと心地よい場所をつくれるのではないか」と、アップデートを志すプレイヤーも無数に生まれていったはずだ。その結果が、現在のコーヒー文化の隆盛ではないか。どの町に行ってもおいしいコーヒーを飲めて大変ありがたい。
「本の読める店」のスターバックスになりたいというずいぶん大きな野望の本旨はこちらだ(もちろんここには、「たくさんの店舗を展開できてそれが順調な経営になれば、ずいぶんいい暮らしができるんじゃないか? タワーマンションとかに、住みたいかどうかは別として、住めたりするんじゃないか? 二拠点生活とかを、したいかどうかは別として、できたりするんじゃないか?」という私利私欲のもとの打算もあるけれど)。読書の文化の裾野を大きくしていくためにも、フヅクエがある種のたたき台として機能するような状況になったら面白い。「フヅクエとか全然ダメ。俺だったらもっと読ませられる」みたいなイキった若者が出てくるのを見られたら楽しい。
いつかカギカッコが外れて、本の読める店という一般名詞として流通していくような世界を目指したい。本を読む人のことを真剣に考え続けること、その軸を手放さずにアクションを積み重ねていけたら、それは実現可能な未来なのではないだろうか。必要なのは、ちゃんと欲望し、そしてちゃんと信じることだ。