「安い客」でいられないようにしてあげる 『本の読める場所を求めて』全文公開(49)

第9章 誰も損をしない仕組みをつくる
㊾ 「安い客」でいられないようにしてあげる

心地よくゆっくり気兼ねせずに何時間も本を読んで過ごしたい人がしたいことは「心地よくゆっくり気兼ねせずに何時間も本を読むこと」であって「安く済ませること」ではない。まどろっこしい書き方かもしれないが必要なまどろっこしさで、「安さ」は店をやっている人間にとっても誘引力を持つもので、「安いに越したことはない」という考えはすぐに忍び寄ってくる。安さ側に寄せてしまうほうがしやすい判断だったりもする。つい引っ張られる。だから大事なことは、何度も自らに言い聞かせないといけない。
フヅクエにやって来る人が欲しているのは「安く済ませること」ではなく、「ただただ心地よく過ごすこと」だ。という前提に勝手に完全に振りきってしまったのがこの席料制で、フヅクエでは、どうあがいても「安い客」ではいられない。そのことが過ごす人にもたらす効果は無視できない。
お金を払うということは、その対象に「いいね!」の意思表示をすることだ。もちろんすべての支払い行為がそんな前向きなものばかりではないことは百も承知だが、小さな規模の店をやっていくにあたっては、店はそういう性善説というのか、ここでもやはりきれいごとを、勝手に前提として立ててしまったほうがいいように思う。「ここに来てくれる人たちは全員が全員、この店を支持してくれて、そしてこの店の存続に必要な金額を落とすことにやぶさかではない人たちだ」と勝手に措定してしまうことで、「ではそんな最高に親愛なる人たちに対して何を提供できるだろう」という前向きな舵の切り方が見いだされていくのではないか。「贈る意識」の中で事業を営むことができるのではないか。話をお客さん側に戻すと、お客さんは、店へのエール、投票として、お金を払う。そのとき、自分が落とす金額が不十分なものではないどころか、店にとってはっきりと意味のある金額だと実感できれば、そこに満足が宿る。「安い客」でいられないことがもたらすメリットのひとつがこれだ。
そして、それと同等、あるいはそれ以上に重要なのが、お金を払うことは、自分に対するエール、投票にもなる、という点だ。
何にどれだけ払うのかを選択するという行為には、「自分に対する値付け」という側面がある。たとえばお昼ご飯。380円の牛丼か、500円の弁当か、1400円のパスタか……。どれもおいしかろうが、選んだものの値段によって変動する精神的な満ち足りがある。「いいのか、こんな贅沢。いや、ここのところずっと忙しかったし、たまには」と迷いながら1400円のパスタを選んだときにもたらされる、「今日の自分はこの食事をするに値する人間である」という、自尊心、誇り。このとき、「安くはないお金を払った」ということ自体がセルフケアのための見逃せない要素になっている。浪費とは祈りだ。
もちろん同じパスタが500円で食べられたとしても、おいしさや満腹感による喜びは同じだけある。「得した気分」という喜びもプラスされるかもしれない。ただ、「安くはない」と感じる金額を払って得る経験には、覚悟と乗り越えが伴う。味や品質を比べるのは難しくても値段を比べることは誰でもできるから、お金を払うことにはわかりやすい手応えがある。そして財布の痛みは喜びに、いたわりに、そして自己肯定や自尊感情に転置されることを望んでいる。「今日はちょっと奮発しちゃうぞ」と言うとき、それは自分にエールを送り、自分に投票をし、自分に褒美を与えるときだ。そのとき、安く済ませないこと自体に価値が宿る。

さて、読書だ。これまで何度も書いているように、読書というものは、どこでだってできる。お金をかけずにすることも当然できる。家で、図書館で、公園で、好きなだけ読んでいられる。また、カフェや喫茶店でコーヒーを頼んで、数百円で済ませることだってもちろんできる。その読書を、わざわざ2000円を払ってすることを、選ぶ。0円、500円、2000円。何階層かある選択肢の中の「いいやつ」に手を伸ばす。2000円という金額が高いのか安いのか、その感覚はもちろん人それぞれだが、少なくともより安価でおこなう手段はいくつもあることは間違いないわけで、それならば、楽しまなかったらバカみたいだ。店へと向かう身体は自然と、喜びの時間を過ごすためのモードへと変容していく。
仕事をがんばったこの夜に、待ちに待った休日に、読みたかったあの本をがっつりと読む。そのとき、「安くは使えない」ということそれ自体が、ただでさえ特別な読書の時間をより特別なものに変える働きを果たす。その時間はより強く祝福されたものになる。




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