喫茶店で本を読む 『本の読める場所を求めて』全文公開(15)
第3章 街に出て本を読む
⑮喫茶店で本を読む
どうもカフェの文句ばかりを書いたような気にもなってくるが、嫌いなわけではない。「しゃにむに本を読みたい者」にとってどうなのかを考えてみただけであって、その条件を除けば好きなカフェはいくつもある。総じて、たぶん、カフェという場所を僕は好んでいる。ただ、やはりカフェは、読書云々とは関係なく、難しい場所ではある。
以前、誕生日のセルフ祝いに、本をリュックに詰めて、評判のいいカフェまで足を運んだ(持っていた本というのは忘れないもので、その日は保坂和志の小説と最果タヒのエッセイと音楽産業を描いたノンフィクションだった)。左官仕上げの広々としたフロアの一角は雑貨や文房具、書籍の販売コーナーになっている。中央にはアイアンフレームと無垢材の大きなテーブル、それを取り囲むようにソファ席が配置されている。席のひとつひとつに作家ものの花器が置かれ、ささやかながら印象的な花が挿されている。ゆるやかな日本のポップスが流される中で、スタッフは藍色のシャツとベージュのエプロンをまとって穏やかな様子で立ち働いている。席に着いた瞬間、あるいは扉を開けた瞬間だったろうか、僕はなんだかぴったりしない気分に見舞われてしまった。具体的にどれが、ということは自分でもわからないのだが(ハリボテのようなぬくもり、偽装された機嫌のよさ、押しつけられた安らぎ、金太郎飴のようなほっこり感、そういったものだろうか……)、「僕のための場所じゃない」という気持ちになって、いたたまれなくなった。3冊も本を持って、当然ゆっくり過ごすつもりだったが、「ちゃちゃっとご飯を食べて一刻も早く出よう」と、オーダーするときにはそう決まっていた。
カフェという場所の難しさとして「店の自意識みたいなものが見えやすい」ということが挙げられると思う。美意識でもいい。我々はこういうものを美しいとし、こういうものをおしゃれとし(少なくとも格好悪くはないとし)、こういう価値観で店をやっています、そういう意識が伝わってきやすい。それに自分がフィットできたとき、その場所で過ごす時間はいいものになりうる。共感できたり憧れのようなものを感じられたりしたら、その中にいるのは気分がいい。一方、当然ながら、「合わない」という事態はいつだって起きうる。そうなれば、そこにいること自体がそこはかとなく違和感に包まれた時間になる。そしてそこに集う人たちが、店が提示する美意識を享受し、「今ここにいる自分」に満足している人たちなのかと思うと、自分だけが間違った場所にいるかのようにすら感じられてくる。
身も蓋もない言い方だが、何かがに障る。カフェという場所では、これは付きまといやすい問題だと思う。
その点、喫茶店というものはとてもいい。
ここではいわゆる純喫茶のような店を考える。もちろん喫茶店にだって、当然いろいろな自意識や自己主張があるだろうが、それ以上に「時間の厚み」みたいなものが前景にある。その場所にそれまで流れ続けてきた時間、その積み重ねによって刻まれた歴史、そういうものが空間全体をマイルドに包み込む。時間の堆積は、気が合うとか合わないとか、癪に障るとか障らないとか、そういう次元をゆうゆうと超えていく。誰もがそこに馴染めるような懐の広さがある。それはカフェで見られる多様性をはるかに超える。一人で本を読もうとする僕のような者もいれば、マッチングアプリで知り合って初めて顔を合わせているらしい男女、競馬新聞を広げるキャップをかぶったおじいさん、商談中のサラリーマン、クリームソーダをさまざまな角度から撮りSNSへの投稿を急ぐ男の子、パソコンを開いて仕事しているフリーランス、ひっきりなしに煙草を吸っている憂い顔の大学生女子、華やかな声でおしゃべりに興じるおばあちゃん。属性に縛られない、さまざまな人たちが自然に同居できる(こんなにも多様な人が自然に集える場所は、他にどれだけあるだろうか)。
そんなバラエティに富んだ顔ぶれの中で、席数の多い店であれば紛れられるし、いろいろな用途の人がいるから出入りの動きも頻繁にあり、あまり自分の長居具合も気にかけなくて済む。いい意味で気にされていない感じがある。とにかく楽にいられる。
そういうわけだから、本を読むときはひたすら喫茶店に行く、という時期があった。休日ごとに喫茶店に入ってコーヒーを飲み、煙草を吸い、本を読む、そういう時間を設けていた。うっかりするとこの「本の読める場所」考察の結論も、「喫茶店でいいのでは?」に落ち着きかねないほどだ。
ただ、没頭して本を読む場所として完璧かといえば当然そうではなく、近くで定年退職後のおじさんたちがプロ野球の話でもしていようものなら僕の耳は全部持っていかれてしまうし、なんなら話に加わりたくもなってしまう。おばあちゃんたちの健康食品をめぐる話も面白いし、ホストの男性と客の女性のねっとりとした会話も聞き逃すわけにはいかない。ネットワークビジネスの勧誘者は今日もがんばっている。面白すぎてボイスメモをそっと起動することもしばしば。
また、煙草だ。喫茶店にはいまだに煙草が吸えるところも多くある。店によっては喫煙者の休憩所となっているようなところもあるだろう。僕も喫煙者だから「煙草が吸える」というのは選択しやすいひとつの理由になっているが、吸わない方にとっては厳しいだろう。僕自身も、席で吸える必要まではないんだよなという感覚もあって、新幹線の喫煙ブースのような、席を立ってアクセスできるスペースがあればそれで十分なのだが、とにかく、長時間滞在することを考えたら、煙草を吸えるというのは喫煙者には大きな助けになる。そして非喫煙者にとっては、大きな障壁になる(だからといって口コミとかで「煙が臭いから星1つ」とか言っている方には「禁煙の店なんていくらでもあるんだからそちらに行けばいいだけなのに勝手に自分から喫煙可の店に行っておいてその点について文句言ってんなよ」と思う。なんであの手合いは自分の基準を正義だとみなす愚かな態度に無自覚でいられるんだろうか)。
それから、これはいくらか恐る恐るの物言いになるが、コーヒーの味ははたして、どうか。
語り継がれ、後進のコーヒーピープルに多大な影響を与え続ける名店ももちろんたくさんあるが、パッと思い浮かぶ喫茶店の大半は、僕にとってはおいしいコーヒーを提供してくれるところではない。焦げた、煮詰まった、エグい、黒い液体、みたいな、そういう味のコーヒーに出くわす機会が圧倒的に多い。そして喫茶店サイズのすぐに飲みきってしまう量の……。
うれしい読書の時間は、自分にとっておいしいと思えるコーヒーを飲みながら過ごしたい。
いくつか書いたが、ただ、喫茶店という場所の魅力は揺るがない。喫茶店はいい。余談だが、老後は小さな喫茶店を開いて、着席したままコーヒーを淹れ、腕だけ伸ばして「ほい」とか言いながら出す、そんなふうに暮らせたらいいかもしれないなとたまに考えている。