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映画に映画館があるように 『本の読める場所を求めて』全文公開(29)

第5章 読書という不気味な行為
㉙映画に映画館があるように

これがどこまで妥当な考察なのかはわからない。さすがに妄言だと言われても、強く否定する気は起きない。ただ、ここまでずっと見てきたように、次のことはたしかに言える。

僕たちには本を読むための場所が与えられていない。読むことはできるかもしれないが全面的な歓迎を明示してくれる場所は、ほぼ与えられていない。これは読書という文化にとって、どうなんだろう。惜しいことに思えてならない。

ひとつの文化が根を張り、幹を太くし、葉を豊かに茂らせていくために、そして茂ったその葉を瑞々しく保つために、「そのことに専念できる場所」が果たす役割の大きさは、どれだけ言っても誇張にならないほど大きい。重要だ。
映画には映画館がある。ゴルフには打ちっぱなしやゴルフコースがある。音楽にはライブハウスやスタジオがある。スキーにはスキー場があって、ボルダリングにはクライミングジムがある。スケートボードにはスケートパークがあってヨガにはヨガスタジオがある。
それぞれ、そのための場所がなくてもその文化は存在するだろう。それぞれがこれまで存在してきたように。しかし、「そのことに専念できる場所」があることによる恩恵は計り知れないはずだ。もし映画館がなくて、小さな画面としょぼい音響でしか映画を観ることができなかったら。もしスキー場がなくて、野山を一歩一歩自分で登ってでしか滑ることができなかったら。もしスケートパークがなくて、注意されたり迷惑顔をされたりするリスクを常に抱えながらしか遊ぶことができなかったら。心置きなく没頭できる場所を抜きに、それぞれの文化の裾野は、今のような広さにはなっていないはずだ。
なくても構わないかもしれないけれど、あったほうが、絶対にいい。ない世界とある世界だったら、ある世界のほうが豊かだと、それぞれの文化の愛好者は思うに違いない。場があったからこそ、臆することなく始めることができた。そしてそれが今では大切な趣味です。そういう人もたくさんいるだろう(「クライミングジムなんて邪道。自然と抱き合ってなんぼ」という人ももちろんいるだろうけれど、いたずらに門戸を狭くしたがる古参の人間というのはどの文化にもいる。本当になんというか、放っておこう)。

だから読書にも、そういう場所があったほうがいい。
心置きなく、なんの気兼ねもなく、読書をすることに最適化された場所。読書をするという過ごし方にこそ向けられている場所。読書をする人こそが主役となる場所。
そういう場所があったほうが、ないよりも、絶対に、いい。
それは、そういう場所がほしくて仕方がない人間がつくったらいい。



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