バーで村上春樹を読む 『本の読める場所を求めて』全文公開(16)
第3章 街に出て本を読む
⑯バーで村上春樹を読む
高校生のとき、親の本棚で見かけて村上春樹を読むようになった。その後、偶然にも国語の授業が一学期まるまる『風の歌を聴け』を扱うもので、授業の面白さも相まってどっぷりハマった。その体験が、読書というものを確固たる趣味にさせたように思う。村上春樹をとっかかりに読書に傾倒していった人を、僕の周りだけでも何人か知っているから、日本中に同じような人がいるのではないか。それには理由があるように思う。
まず当然だが、「うわあ、小説ってマジで面白い!」という経験を味わわせてくれたこと。なぜか履修していたポルトガル語の授業中に机の下で『羊をめぐる冒険』を読んでいた場面。アルバイトの10分休憩のバックヤードでも取り憑かれたように『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいた場面。そのふたつの場面が妙に印象に残っているのだが、とにかく面白くて仕方がなかった。ひたすらずっと読んでいたかった。それまでも読書には親しんできたが、ここまでの没頭は初めてのことだった。
それからもうひとつ、これは実は大きいのではないか、という理由。
「語り手の「僕」の暮らしぶりや立ち居振る舞いがなんだかかっこよく見える」→「その彼は本を読んでいる」→「本を読むのってもしかしたら全然かっこいいこととしてなされうるのかもしれない」→「実際、彼はずいぶん簡単にセックスをしている」→「本を読めば俺もさくっとセックスできるようになる!」
これは、高校生にとってはかなり強力な魅力だ。容姿とか運動能力とか、ノリとか面白さとか、そういうところでは到底戦えない。しかしもしかしたら、「僕なりの戦い方(モテ方)」というものを構築することはできるのかもしれないぞ、という危うい気づき。これは衝撃的な発見であり、それまでは誰も、「違う土俵」というものがあるなんて教えてくれなかった。貧しい想像力の17歳は、見た目も話術も厳しいから、いい大学に入っていい企業に入っていい稼ぎをして、経済力で戦うしかないかな、向こう10年は諦めかな、長く辛い道のりだな、そんなふうに思っていたところでの村上春樹の登場だ。天啓だった。
それは若気のみが至ることのできる偉大なる短絡だが、改めて考えてみても、この二重の導きは今なお有効な力を持っている。「読書は面白い読書は暗い趣味かもしれない」よりも、「読書はしんどい読書はクールな趣味かもしれない」よりも、「読書は面白い読書はクールな趣味かもしれない」というこの認識、それが誤ったものであろうとなかろうと、ずっと強く明るく、読書という行為を肯定し、照らしてくれる。
さて、その村上春樹の「鼠三部作」と呼ばれている作品群において、「ジェイズ・バー」という店が登場する。デビュー作『風の歌を聴け』では、「床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻」が撒き散らされているというその「狭い店」に、語り手の「僕」はひと夏のあいだ日参する。
「僕はビールとコーンビーフのサンドウィッチを注文してから、本を取り出し、ゆっくりと鼠を待つことにした」
このイメージは高校生の僕の中に植えつけられ、長い時間をかけて育っていった。「酒を飲みながらゆっくりと本を読みたい」といううっすらとした欲望の始まりが、この情景にあったに違いないと気づいたのはずいぶんあとのことだ。「いつもと同じカウンターの端の席に座り、壁に背中をつけて」、サンドウィッチとビールを片手に本を読む。なんと贅沢で、なんとクールなのだろうと、それを是が非でもしたいと、そう思うようになっていった。
やはり夏だ。初めて『風の歌を聴け』を読んでからもう10年ほどが経っていた。駅からの帰路にバーがあった。静かで重厚そうな外観。入りかけ、「しかしやっぱり今日じゃない」という特に意味のない引き返しを何度かおこなったのち、とうとう入った。緊張を覚えながら、重い扉を開けて店内へ。バーコートをまとった背筋の伸びたバーテンダーが顔をこちらに向け、落ち着いた声で僕に挨拶をする。カウンターには数人の先客がいて、静かに話している。ちらっと視線をこちらに向け、すぐに戻す。新たな来店者が顔見知りかどうかを確認したのだろう。僕は示された席に腰を下ろし、聞き覚えのあるような気がおぼろげながらする銘柄のウイスキーを注文して、煙草に火を点ける。このときにはもう「きついw」と思っている。「とてもじゃないけど本読むとか無理www というかいるのも無理www」と。
圧倒的な暗がり。親密な、出来上がった空気。ご親切にも振られる話題。この状況で、本を開く度胸は僕にはない。
結局30分ほどのあいだで2杯飲んでそそくさと帰ったわけだが、バーという場所における読書の難しさとは、話し声や暗さといった具体的な状況に起因してのものよりも、もっと抽象的で漠然とした問題に依っているように思われた。
つまり、過ごし方の正解不正解がわからない。この場所において正しく空気を読むとはどういうことなのかがとにかくわからない。僕にとってはこれに尽きた。たとえばどれだけのペースで杯を重ねることが求められているのか、という問題。
特に真偽が確認されないまま、なぜか自分の中に定着してしまう規範というものがある。大学時代、「バーにおいては15分に1杯は頼むのが客のすべき振る舞い」という話をゼミの先生だったか先輩だったかから聞いた。今思えば彼らが好んで行っていた「新宿ゴールデン街での飲み方」の話だったような気もするが(そのときはゴールデン街というものを僕は知らなかったし、今も何回か行ったことがあるだけのあのエリアにどんな掟があるのかは知らないままだが)、僕はなんとなく耳にしたそれをまるまる、そしてぼんやりと、規範として持つようになってしまった。その夜もうろ覚えのそれに従って15分おきに注文した。お酒が強くない僕からすればこれはかなり速いペースで、仮に本を開いていたとしても、たちどころに酔っぱらって読書どころではなくなっていただろう。
それにそもそも、本なんて出していいのか、ということがとにかくわからない。それぞれスタンスも違うだろうが、「ここは談話のための場所である」というところもあるはずだ。レイ・オルデンバーグがバーテンダーの店だったら、一枚板のカウンターの上に本を置いた瞬間に激しく叱責されるに違いない。「なんのつもりだ! 談話のないところに生命はないと言っただろう!」と。よしんば怒られずとも、店に寒々しく思われ嫌がられる振る舞いをしたいわけでは当然ない。
また、もし本を開くのは可能そうだと判断できたとして、やはり談話の声は気になるところだ。できたら遮断したい。では、イヤホンは? バーという場所で、イヤホンを耳に挿すなんて、してもいいのだろうか。どうも、すごく気が引ける。
そんなわけで、とにかくわからない。作法がまったくわからない。打つ手なしだろうか。
バーでの読書を実現するための攻め方は、おそらく二通りある。ひとつは何度も足を運んでその店の暗黙のルールを熟知し、店の人にもこちらの過ごし方をよく知ってもらう。これは長期戦になるだろう。もうひとつは初めてであれなんであれ、店の目も他の客の目も気にしないで済ませる胆力を持つ。こんなことができる人間は、そもそも「本の読める場所」を求めてあてどなくさまようこともないだろう。いずれにしてもそのハードルはとても高い。