図書館で本を読む 『本の読める場所を求めて』全文公開(18)
第3章 街に出て本を読む
⑱図書館で本を読む
ここまでそれぞれに一長一短があったが、パブは例外として、共通して読書を邪魔してくる(もう少しマイルドな言い方をするならば、読書と相性がよくない)のは人々の話し声だった。では、静かな環境であればどうだろうか。静かで、座ることができる場所、図書館。図書館はたいていの町にあるはずだし、なによりも無料だ。もし図書館が読書に最適な場所であったならば、それは朗報になるだろう。
僕自身、図書館に入り浸っていた時期もあった(いろいろな時期がある)。行き場がなく、本と水筒を持って、毎日のように図書館に通っていた。図書館はたしかに、基本的には静かな場所だ。おしゃべりに花を咲かせている人はいないし、いたらおそらく司書から注意されるだろう。明るい午後の時間の図書館には、光が差して、あたたかで、まどろむような時間が流れている。というと聞こえはいいが、突っ伏して居眠りしている人が例外なくいる。居眠りを目的として来ている人さえいる。僕も眠ることがよくあった。どこからともなく聞こえてくる寝息、ときにいびき。シエスタ、とつぶやいてみることによって、その弛緩した時間を好ましいものとして受け取ってもよさそうなものだが、どうもそうは感じられなかった。僕も含めた、行くあてのない人たちの物哀しい吹き溜まりのように感じられてしまった。
もちろん、明確な目的を持って来ている人たちもいる。しかしその多くは勉強をする人だ。穏やかに自身のやるべきことをやっている人たちもいるが、中には猛烈な勉強者がいる。破り取ろうとしているようにしか思えない速さと勢いで参考書のページをめくる。何かを占っているのかなという調子でコロコロとペンを転がす。出し入れを繰り返さないとインクが出ないとでも思っているのかなという調子でペンをカチカチし続ける。静かな空間において、その音は強烈だ。人の声さえなければ穏やかな静けさが担保されるというわけでもないということだ。誰もが無料で入れる場所というのはいろいろな用向きの人がいるということでもあって、そんな場所で自分だけの「ここぞ」という読書の時間を満喫したいというのは、無理な希望かもしれない。
コーヒーチェーンで本を読む
図書館でもダメとなると、だんだん、気持ちのいい読書の時間に必要なのは本当に静けさなのか、わからなくなってきた感がある。こじんまりとしたカフェよりも大箱のカフェ、ソーサーに戻すデミタスカップの音がカチリと響く緊張感のある喫茶店よりも多様な人間の見本市のような喫茶店、オーセンティックなバーよりもパブでビールとフライドポテト。これらはどれもにぎやかだ。では、心地よさの源泉は何かと考えれば、これらの場所に共通している気楽さだ。イヤホンをするのもられないし、いろいろと構わないでいられる気楽さ。
この「構わない」は「構われていない」でもあって、店の人もひとりひとりの客について、顔のある人間というよりは処理すべきタスクとみなしている。「今日はなんだか元気がなさそうだな」などと思ったりしない。僕は「A卓の5番」でしかない。客から見た店の人も、店の人から見た客も、また客同士も、互いに匿名の存在として扱えてしまう。気になる「人目」が薄まる。このことは、余計な気を回さずに過ごしたいときにはかなり重要な要素だと思う。
その筆頭がコーヒーチェーンだろうか。220円のコーヒーを買って席に着く。2時間後にもう1杯飲みたくなって客席からレジに向かうと、「いらっしゃいませ」と言われるあの感じ。本当に構われていないことがよくわかる。もう何時間でもいられる。だから、たしかに、読める。でも、僕が行くのは、「今日はあの本をめちゃめちゃに楽しむぞ」というときではなくて、「ちょっと時間を潰したいから」というときだ。これらの場所で積極的に読書をしようとは思わない。その端的な理由は、「本を読む時間の祝福のされなさが際立つ危険性が高いから」だ。
パブリックな場所におけるいい時間というのは自分一人でつくれるものではない。周囲にいる人たちの影響を多分に受ける。
たとえばとても特別なディナーの時間を過ごしに、自分の暮らしの水準からすると非常に贅沢な店に行くとする。行ったことがないからわからないが高級なフレンチレストランであるとかに。一張羅のスーツを着ていささか緊張した面持ちで、今晩結婚でも申し込むつもりなのだろうか(今度はいったい誰の話が始まったのか)。サービスマンが、丁重だが自信のある物腰で何かを言ってくる。アペリティフとか、たぶんそういう、なんのことかわからないことを、言ってくる。その場にいる全員が格上の人間に思える。こんなときでも卑下というのは待ったなしで顔を出してくるものだが、一方で、背筋も伸びる。今日は特別な、忘れられない夜になる、そんな予感がたしかにある。
─と、近くのテーブルからゲラゲラ笑う声がした。吸い寄せられた耳が聞き取ったのは下品な単語だ。それからもいやおうなく耳に入ってくる情報を総合すると、どうやら日常的にこの店に来ているようで、彼らにとっては特別な時間でも贅沢な時間でもなんでもないらしかった。「今日のアペリティフはいまいちだね」などとケチをつけてもいる(ところでアペリティフってなんですか?)。どうしようもなく興が醒めていくのを感じる。台無しにされたような気持ちになる。なんだかな、というあの気持ち。プロポーズもまた今度にしようか……。
ここまで書いているあいだに何度も思い、そしてまた今も思うが、僕はいささか脆弱すぎるのかもしれない。ただ、それでも、とにかく、パブリックな場所における体験の質というものは、この例もそうだし映画館や劇場でも同じだが、周囲の人たちの影響を免れることはできない。自分以外の人たちのありようは、思いのほかに重要だ。
その点で、手頃な値段で利用できるコーヒーチェーン店は高い危険性を孕んでいる。
図書館と同じように異常な猛烈さで勉強し続ける人はいつだっているし、突っ伏して寝ている人もやはりいる。スーツ姿の男は電話越しに相手をネチネチと叱責している。パソコン作業者はガッチャガチャにタイピングし、止まらない貧乏ゆすりみたいにマウスをクリックし続ける。恨みを晴らすようにエンターキーをぶっ叩く。広げられた資料は横の席を侵犯し着席を阻む。一人で4席分も占領する。あれ、この人、店のカップが見当たらないうえにペットボトルとコンビニのパン出してますけど、目が届かない構造だからって無料休憩所だと思ってたりする……?
この人たちは敬意を払っていない。場を提供してくれる店に対して、周囲にいる人たちに対して、敬意を払っていない。数百円を払うことでいくらかのスペースと時間を買っているわけだけど、傍若無人に過ごす権利まで購入済みだと思い込んでいる人たちが必ずいる。そしてまた、多くは、自分が過ごしている時間に対しても敬意を払っていない。それが言いすぎだったとしても、自分へのご褒美となるような、甘美な時間としては過ごしていない(僕もそうだ)。もちろん、誰もが甘美な時間を過ごさなければいけないなどといういわれはないから、それ自体は仕方がない。問題はそういう人たちの集積によって生み出される、空気の雑さだ。
ご褒美の時間として過ごしに来た人がいたとする。「このフラペチーノのために今週はがんばったぞ」というような。その楽しみが、期待が、何に対しても敬意を払っていない人たちによって傷つけられるリスクがとても身近にある。だってみんな、超どうでもいい気分で過ごしてるんだぜ。「フラペチーノ」が「読書」であっても同じで、これが、「ここぞという読書の時間」を所望する者にとっての大きな問題だ。
他者への敬意の欠如と自己への敬意の欠如は、両輪だ。楽しみな時間として行ったものの損ねられてしまったという体験を繰り返すうちに、次第に自分もまた、ただ「使う」対象としてその空間を捉えていくようになる。それが態度ににじみ出て、また周りに波及して、回っていく。そうやって結果としてなにかギスギスした、雑な、荒い、哀しさのようなもの、寂しさのようなもの、侘しさのようなものをまとった空気が形づくられていくのではないか。
オルデンバーグは「談話のないところに生命はない」と言っていたが、談話のないところにもそれはあると僕は主張する。でも、敬意がないところに生命は、間違いなく、ないのだ。
敬意と楽しみは同根だ。いい時間を過ごすためには僕たちは自分が過ごす時間を正しく楽しみにしなくてはいけない。その時間に正しく期待しなくてはいけない。まずはこれがなくては始まらない。そして来たるべきその楽しみな時を思う者は、そこに至るまでの時間、つまり自分が生きる時間に対しても、敬意を払うことになるはずだ。自分はその楽しみな時間を迎えるに値するだけの価値がある、と。
そしてその敬意は、楽しみは、期待は、毀損されてはならない。毀損されるかもしれない、という恐れだけでももうダメだ。この期待は必ず果たされるという確信と安心とともに向かうことができる場所。「本の読める場所」とはそのようなところであるべきだ。