そしてグルーヴが生まれる『本の読める場所を求めて』全文公開(51)
第9章 誰も損をしない仕組みをつくる
51 そしてグルーヴが生まれる
そこはドリンクが1000円前後するカフェで、僕にとっては「なんでもないとき」にはとても行けない店だった。あぶく銭が入っていい機会だったので、ゆっくりじっくり贅沢な読書時間を楽しもうと、行ってみた。あたりにいるのは、話に花を咲かせる優雅なマダムたち、パソコンを開く人、僕と同じように本を開いている人、パソコンを開く人、パソコン&打ち合わせをしている人、手帳に何かを書きつけている人、パソコン&電話者、パソコン、パソ子。あれ、なんだこれ? 仕事している人、ずいぶん多くない……!? それに電話とか打ち合わせとか、オフィス的な使い方をしている……!? いったいどんな富豪たちなのだろうと思ったが、ピンときた。「会員」だ……。
この店では月額5000円から加入できるサブスクリプションサービスをやっていて、50
00円の場合、一度の来店につきドリンク2000円までが注文でき、さらに同伴者にも適用できるという内容だった。これが罠だった。
仮に平日毎日行くとすると月20回だから、来店一度あたりにかかるお金は250円になる。スタバよりももっと安い感覚、ドトールと並ぶような感覚で、優雅なカフェに入り浸れる(というか、日々原稿を書きに通っている現在の僕はドトールに月1万円くらいは払っている気がする……)。さらに、2000円の枠をフルに使うことにして毎回2杯を頼んだとしたら、非会員が1000円ほどで飲んでいるドリンクが1杯あたり125円……。激安だ……。
このとき、たくさんのひずみが生まれている。僕はこの店で「自分に許した特別な時間」を過ごそうとしていた。一方で店内には、「スタバと比べ、実質的により安く、より快適な環境で、仕事をガシガシするために使える店」としてしか認識していないように見える人がいくらでもいた。電話や打ち合わせをしている人たちの様子を見ていると、シェアオフィスとでも思っていそうだった。自分の周囲に、この時間を大切に過ごしたいと思っている人がいるなんて、想像したこともなさそうだった。そんな状況で、贅沢な気分を保つことは困難だ。それにそもそも、僕が「奮発!」と身震いしながら頼んだ1000円の自家製シロップのジンジャーエールを、彼らは125円で飲んでいるのかもしれないわけで、そんな値段でも出せる飲み物なのか……? 1000円とはいったいなんの値段なんだ……?
リッチとプアが混在する。奮発したい僕、安く使えちゃう君。大事な時間として過ごしたい僕、自分のオフィスだと思っている君。めったなことじゃ来られない僕、ひたすら使い倒す君……。リッチな気分はプアな気分によってかき乱されて、なんだかわけのわからないものになっていく……。
この仕組みの問題はすでに表出していたようで、サブスクリプションの案内チラシにも「気持ちよい使い方をしてください。スタッフが疲れたり傷ついたりもしています」というような文言があったし、その後、ほどなくしてそのサービスは終了したらしかった。部外者ながら、終わって正解だと思った。本来はこの店のビッグファンにこそ向けたかったサービスが、この店を愛し、その存続や繁栄を望む人にとっても使いにくいものになっていたはずだ。なぜなら、あまりにも簡単に元が取れてしまうから。いったいどれだけの頻度で行使していいのか、躊躇が生じる。安い客になってしまいたいわけではない。迷いながらしか使えない。一方で、情報を嗅ぎつけてコスパを計算して、これは使える、と思った人にとってはたいへん便利だった。遠慮なく使うだけだ。つまり、「受贈者的な人格」を迷わせ悩ませ、「消費者的な人格」を活性化するような本末転倒なサービスになってしまっていたはずだ。制度が、店と客あるいは客と客の、それぞれの思惑のせめぎ合いになってしまったらその時点で失敗だ。
結果的にこの仕組みがつくってしまったのは、要するに「贅沢な気分で過ごしたい人」と「雑に使いたい人」両方が来店する状況だった。この店の場合はドリンクが1000円前後と、もともとがカフェとしては高価な部類だったから「贅沢」と「雑」のギャップが際立って見えただけであって、両方を招き入れるということ自体は何も特別なことではない。多かれ少なかれたいていの店はそうなっているはずだ。多様なことはけっこうなことだ。しかし、それをもし「本の読める店」でやってしまうとするとどうなるか。先の店と同じように、本当に大事にしたいはずのお客さんの体験の質を、いやおうなく低下させることになるはずだ。
仮に、席料制が撤廃され、しかしなんらかの方法で静けさや気兼ねのなさが担保され、読書に最適な環境は守られているとする。この場合、これまでと変わらず、本をがっつり読みたい人は来てくれるだろう。安く使えてしまう以上、贅沢な気分を確保することは難しくはなっているが、自分ひとりの問題であれば、意思の力でどうにかできるかもしれない。しかしあいにく、その場には、ともに過ごす他者がいる。安く使えてしまうことは、雑な使い方をする人の流入を促す。フヅクエの場合ではまず「長居」がお題目に成り下がるはずだ。さくっと使ったところで何も損をしないからだ。そうなれば、読書なんてどうだっていい人たちも躊躇なく敷居をまたいでくるだろう(写真を撮ってインスタグラムにアップしたいだけの人とか、犬猫がマーキングするように口コミサイトにレビューを書いて回ることが生き甲斐の人とか)。本を読む人の割合は減り、景色も空気も間違いなく変わる。本を読みに来た人は、読書をする気配もなくくるくると入れ替わる人たちの存在に、白けた寒々しい気持ちになるだろう。「本の読める店」といってもこんなものなのね。静かだからいいけど、結局こんなものなのね。
「読書以外の過ごし方はご遠慮ください」が一応の解決策にはなるかもしれない。しかしこれは課してはいけない制約だと考えている。案内書きにも「読書以外の過ごし方」の項目を設けているが、これはむしろ読書をしに来た人にこそ向けているところがある。どれだけし続けたいと思っていても、疲れたり飽きたりしてちょこちょこと休憩の時間を挟む必要があるのが読書というものだ(集中力のもたない僕固有の問題かもしれないが)。スマホを眺めたりノートを出して何かを書きつけたりといった、読書の時間に緩衝材を当てる行為がいちいち禁止事項に抵触するかもしれないとしたら窮屈だ。本を読む人たちがよりのびのびと過ごせるようにするためにこそ、読書以外の過ごし方が案内されている。
ともあれ、席料制が設けられていることの最大の効果は、選択の余地を限りなく小さくするということだった。安く使う余地、短時間で済ませる余地、使い倒す余地、それらをあらかじめ取り除くことで、「フヅクエに行く」という行為に、「大事に丁寧に楽しみに行く」が常に伴うよう設計されていた。そしてこれは、個々の体験の質を担保することだけではなく、その場全体の高まりを生み出すことをも助けている。「そういう人ばかりがいる」という高まり。
自分と同じように、他のすべての人も同じ条件下で過ごしている。どの人もまた、ある種のハードルを乗り越えてここで過ごすことを選択した人たちだ。ここで過ごす時間に期待を抱き、存分に楽しむ心づもりを持ってやって来て、豊かな心地になって帰っていこうとしている人たちだ。すべての人がそうであるとたしかに感じられるとき、そう感じた人のうちには、言いようのない心強さが現れるはずだ。その心強さはまた、外に漏れ出て、空気の中に流れ込む。そして結託、共犯意識、連帯感、親密さ、それらが絡み合い、太く強靭なグルーヴを生むのではないか。
これは均質性がもたらす静かな熱狂だ。多様性を排したうえで生じる熱狂なんて危険だろうか。野蛮だろうか。同じことを映画館にも言ってくれ。野球場にも、劇場にも言ってくれ。どんな遊びにも、熱狂のための場所が用意されていていいはずだ。
両手のひらを天に向け、背を丸め、こうべを垂れる。
ほとんど祈りのような姿勢のままじっと身じろぎもせず、ひとり静かに本を読んでいる、そんな美しい人たちの集まりによって生み出される静かな熱狂。それこそが「本の読める店」が見せてくれた読書の公共圏の姿だ。