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気兼ねをゼロにしてあげる 『本の読める場所を求めて』全文公開(48)

第9章 誰も損をしない仕組みをつくる
㊽ 気兼ねをゼロにしてあげる


「オーダーごとに小さくなっていくお席料」制です。席料表は下記の通りです。

仮に説明がこれだけで済まされていたら、半分ほども伝わらないだろう。「まあ、ゆっくりする店ということだし、このくらいは必要ということなんだろうけど、それにしたっていい値段するよな。これだけ払うなら長居もするわな。しかしこれ、さくっと使いたい人からしたら地雷だよな」くらいが関の山かもしれない。このくらいは必要であることも、それがいい値段であることも、これなら長居が促されるということも、さくっと使いたい人にとって地雷であることも、どれもおおよそその通りだが、いかにもさみしい伝わり方だ。
それ以上に、いくつもの「とはいえ」の余地が残っていることが大きな問題だ。
この仕組みによって最も強くサポートされるのは、「したいことはとにかくゆっくり読書をすることであり、飲食は最小限でいい」という人たちだ。これまでも書いてきたように、カフェや喫茶店で長居をするにあたって最もよりどころのない気持ちを味わっていた存在だ。この人たちの気兼ねをなによりもなくすこと。
しかし仕組みの説明、計算例の提示だけで終わっていた場合、コーヒー1杯700円で席料900円と合わせて1600円という自分が払う金額は、まったく安い金額ではないとはいえ、たとえば1000円の定食と800円のビールと300円の席料で2100円を払う人に比べたら、店にとっては価値の小さい客なのではないかと考えてしまう余地がある。というか、普通の人は「そのメニューの利益はいくらか」なんていう観点は持っているはずがなく(持つ必要もない)、支払額の多寡でしか考えないはずだ。だから、「とはいえ、お酒を飲んだりご飯を食べたりする人のほうがうれしいんでしょう? だって支払額はより大きいのだから」と考えてしまうことは自然なことだし、たとえば夕飯どき、他のお客さんがみな食事を頼んでいたら、どこか肩身の狭さを覚えてしまうとしても不思議ではない。コーヒー1杯での長居も可能なようにはなっているらしいとはいえ、それが消極的な歓迎なのか、全面的な歓迎なのか、客には判断する材料がない。「ゆっくりしていってください」とはたしかに書かれている。とはいえ、どれだけいてもいいものなのか。その言葉に甘えてそのままずっといたら、店の人間から、「いや、書きましたよ、書きました、ゆっくりしていってくださいねと私たしかに書きました、とはいえ、さすがに長すぎるんじゃないですかねえ」と思われる存在になってしまうのではないか……。その塩梅はわからないままだ。
しかしフヅクエの案内書きの説明では、店の手の内が詳(つまび)らかにされている。読み手は、ただ結論としての決まりごとを与えられるだけではなく、店の思考をなぞり、追体験することになる。全員が店に1500円の利益をもたらす存在になる……それは店の運営にとって必要かつ十分な金額である……だからすべての過ごし方を心底から歓迎できる……。プロセスをなぞることで読み手のなかに生じる深い理解は、「この場における長居とは価値の根幹であり、もはや許可されたものですらなく、デフォルトの設定である」ということだ。長居をすることは甘えや厚かましさであるどころか、客が店への連帯や支持を表明する行動ですらある、ということだ。ここまで理解が進んでしまえば、もう何ひとつ、「いる」ことに対して気兼ねをする必要はなくなっているはずだ。





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