偶然を排する 『本の読める場所を求めて』全文公開(38)
第7章 穏やかな静けさと秩序を守る
38 偶然を排する
阿久津:花田さんはその、なんか、この本読むのめっちゃ楽しみみたいな本ってあるじゃないですか、なんか次の休みの日もう絶対読むとか。ていうとき、ってどうし、どうしてますっていうか、そういう、勝負読書みたいな、ははは、勝負読書のときってどう、こうしたい、こう、できるだけこうしてるってあります?
花田:やっぱり休みの前の日に、いい感じのカフェに行って、っていうのがベストアンサーなんですけど、でもそれってギャンブル性高いんですよね、このカフェだったら、いい雰囲気だし大丈夫だろうって思うと、隣にめっちゃ、声の大きい女子二人が仕事の愚痴を延々しゃべってるとか、ほんとうにつまらないどうでもいい話が聞こえ続けてて耐えられないとかって、なるじゃないですか。
阿久津:そうなんすよね~。
花田:だからそのガッカリ感っていうか、せっかく高い、1000円のアイスティーを頼んで、でここに座って。
阿久津:ははは、1000円のアイスティー、それは、椿屋珈琲、ははは。
花田:なのに、誰も私の読書を保証してくれないっていう。
阿久津:や、そんな、フヅクエに与する、なんかいい話にしなくていいですよ。
花田:だから、チャレンジする気がなくなっていきますよね。
阿久津:どうなります? 家になります?
花田:家になります。
「ひとの読書」という名前で、暮らしと読書についてつらつらと話を聞く(そして話されたままに文字を起こす)インタビュー企画を、フヅクエのウェブサイト上でたまにおこなっている。これは「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」の店長であり『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』や『シングルファーザーの年下彼氏の子ども2人と格闘しまくって考えた「家族とは何なのか問題」のこと』の著者でもある花田菜々子さんに出演してもらった回からの一節だ。花田さんによって、プレディクタビリティ(予期可能性)の肝要さが余すところなく言葉にされている。
痛みの記憶はやはり残る。「外傷」というやつだ(たぶん)。どこかに本を読みに行こうと思いついても、かつての失敗の記憶が蘇れば、怯(ひる)む。しかし賭けに出て、また行ってみる。また敗れ去る。そういうことを繰り返していると、結果、家になる。
「本の読める店」は、そこに向かうことを、ギャンブルにもチャレンジにもしてはいけない。偶然性に身を晒(さら)させてはいけない。偶然の静けさなんていうものであれば、どんな店でだって生じうる(驚いたことに原稿を書いているいつものコーヒーチェーンで、夜8時、7割方の席が埋まっている状況で、今、誰ひとりしゃべっていない!)。
静けさは約束されなくてはいけない。安心ベースの期待とともにその場に向かうことができないといけない。これは別になにも特殊なことではなく、たとえば、そこが映画を快適に観られる環境かどうかの不安を抱えながら映画館に行くことなんてまずない。これから観る映画への期待が、抱えている感情の大半のはずだ。その感じを読書でも、というただそれだけのことだ。