「ジェイズ・バー」はバーなのか? 『本の読める場所を求めて』全文公開(17)
第3章 街に出て本を読む
⑰「ジェイズ・バー」はバーなのか?
ジェイズ・バーでの「僕」のような優雅な過ごし方は、まるで叶わなかった。やはりこれは、ずいぶん簡単にセックスを達成する「僕」のような特殊な、一握りの、選ばれし者だけに許された高貴な遊戯なのかもしれない。常人がそれをなすためには、もう少し年齢を重ねる必要があるのかもしれない。ロマンスグレーの髪をなでつけ、控えめに鳴らされるグレン・グールドの演奏に耳を傾けながら、ちびりちびりとウイスキーを舐めながら、本を開く……僕もいつか……。
ん? ロマンスグレー? いや、そこはいい。グレン・グールドに耳を傾け? ウイスキーを、ちびりちびり? 僕は今、重大なことに気がついてしまったかもしれない。長いあいだ、思い違いをしていたかもしれない。もう一度『風の歌を聴け』に戻って、ジェイズ・バーの様子を見てみよう。まず先に引用したように、そこは「床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻」が撒き散らされた場所だ。そしてこんなふうだ。
「もっとも、まわりには鼠の大声を気にするものなど誰ひとりいなかった。狭い店は客で溢れんばかりだったし、誰も彼もが同じように大声でどなりあっていたからだ。それはまるで沈没寸前の客船といった光景だった」
さらに店内にはジュークボックスがあり、ピンボールマシンがあり、ポータブル・テレビまで貸し出していてそれで野球中継を見たっていい。「僕」たちが飲むのは基本的にビールで、どうやら瓶で供されるようだ。人気のつまみはフライドポテト。ジェイは「毎日バケツ一杯の芋をむいている」とある。
これは、なんだ? どう考えても、静謐で重厚で、バーテンダーが振るシェイカーの音が心地よく響くような、そんな雰囲気ではない。いや、さすがに、読んでいるときにここで描かれている空間を「静謐で重厚で」とは思っていなかっただろうが、おそらく「バー」という名前に引っ張られて、「バーだ、とにかくバーだ、バーというのはオーセンティックなバーだ」となっていたのだろう。ジェイズ・バーでの過ごし方に憧れた僕が行くべきだったのは、バーではない。行くべきは、おそらくパブだ。
ここでバーとパブの違いを細かく定義するのは僕の手には余るし、大枠で考えられれば十分なのでざっくりと分けることにするが、バーは「たいていしっとりとした雰囲気/ショートカクテルをつくってもらえる/じっくり腰を据えて飲む/つまみはドライフルーツとかチーズとか/テーブル会計」とかで、パブは「たいていにぎやかな雰囲気/パイントのビール/立ち飲みも辞さない/揚げ物もあるよ/キャッシュオン」とか、そんな感じだ。
要素を書き出してみると、やはりジェイズ・バーはかなりパブ寄りの空間であることがわかる。こういうことならば話はだいぶ変わってくる。ロマンスグレーを待たずとも、僕もジェイズ・バーで「僕」がおこなったような憧れの読書をできるかもしれない。というか、すでにしていた。
僕はフライドポテトが好きだ。大好きだ。とても好きなので、フライドポテトをつまみながら、お酒を飲みながら、本を読む、そんな過ごし方をしたくなる夜が頻繁にある。真っ先に浮かぶのは近所のアイリッシュパブで、しばしば行く。そこはまさににぎやかで、キルケニーやギネス・スタウトを筆頭に6タップほどのビールがパイントやハーフパイントで供され、基本は着席だが状況によっては立つことも。揚げ物に限らずフードメニューは潤沢にあり、そして、キャッシュオン。お気に入りの場所だ。そこは個人店のようだが、英国風パブチェーンであるところの「HUB」によく足を運んでいた時期もある。とにかくフライドポテトと、ビール。
こういう場所で本を読むことのよさのひとつに徹底的なにぎやかさというものがあって、これは、静けさが基調となっていてぽつりぽつりと低い声で会話が交わされている状況よりも、むしろ本に集中できるところがある気がする。うるささというのは度を越してしまえば一枚の分厚いノイズとなり、個別の言葉が意味を持たなくなる。音の膜によって他者とのあいだにカーテンができるような感じもある。その音環境は、実は読書に向いている(眠るときに激しいノイズミュージックを流していた時期があるような人間の言うことだから、そんなに多くの人に賛同してもらえないかもしれないが)。
またキャッシュオン方式は、過ごす時間の気楽さに実は少なからぬ寄与をするものだと思う。すべての客がそんなふうにいちいち考えるとはさすがに思っていないが、潜在的には感じているはずの気楽さの源泉に、「客の注文の総体を、店は正確には把握できない」ということがある。すべてを店主だけで取り仕切っている店なら話は別かもしれないが、複数人で回している店であれば、店は、客の前に置かれているグラスが1杯めのものなのか2杯めのものなのか、完全にはわからないのではないか。今こなすべきオーダーの宛先まではわかっても、席ごとのトータルの注文内容はわからないのではないか。把握しておくインセンティブがないから。その都度、もう精算されているから。そうなると店は、それぞれの客が、高い客なのか安い客なのか、わからない。ある程度はわかるかもしれないが、正確にはわかりようがないから、おそらく「単価でジャッジする」という目で客を見るようにはなっていない。このことを僕たちは潜在的に知っていて、だから、そういう目で見られていないと思えば、気楽にいられる。
しかしこのことと表裏一体のところに、パブでの読書の難しさがある。単価では客を見ない。それでは、何で見るか。「まだ飲んでいる客かもう飲み終わった客か」なのではないか。グラスが空になった瞬間に、「もう用が済んだかもしれない人」になるのではないか。そこで問われる。もう1杯頼むか、それとも帰るか。
これが、特に個人経営のパブで僕が感じることだった。この問いかけに応じ、なおかつ読書を続けたいならば、次々に飲まなくてはいけなくなる。あっという間に酔ってしまう。対策として考えられるのは「みだりに飲み干さない」ということだが、何が楽しくてそんなみみっちい駆け引きをしなくてはならないのか。しかしこれも店の規模に大きく左右されることかもしれない。席数が多く、より紛れ込めて、目も届きにくいであろう「HUB」では、そういうことを気にしないでも済む感じがある。
それからパブでの読書のもうひとつの難しさに、与えられるスペースが狭いということが挙げられる。隣との距離も近いしカウンターに奥行きもない。それは当然のことで、ワイワイガヤガヤと、他者と愉快に過ごすことが目的とされている空間だ。「青年よ」。ふと言葉を向けられた気がしたから顔を上げると、またオルデンバーグ爺さんだ。真っ赤な顔でパイントグラスをつかみながら、「さっきから黙ってうつむいたままだが、元気がないのか?」「いえ、今は本を読ん─」「心配は吹き飛ばして、楽しくやろう!」みたいなことが主眼とされる場所だから(偏見)、ひとりひとりに十分なパーソナルスペースを提供する理由もない。そのため、本来であればグラスや皿は少し横に置いて、正面は本、という配置がベストのはずだが、狭くてできない。それをすると隣人の領分を侵すことになってしまう。してはいけないことだ。すると、目の前にビールとフライドポテトを置くことになる。こうなると、使えるスペースのほとんどがもう埋まってしまうわけで、本は持ち上げて読まなくてはならなくなる。腕が疲れる。重いハードカバーだったりすると「本を持ち上げること」に意識の大半が向かってしまっているようなバカバカしいことすらある。文庫本にしておくのがよいだろう。
そんなわけで、パブという空間が好きだ。入ってみてから毎回、思い描いていたような読書の時間は結局過ごせないということを思い出すのだが、懲りずに足を向ける。ビールを2杯飲んで、フライドポテトをノンストップで食べて(フライドポテトを食べるとき手を止めるということが僕にはできない)、途中からは本ではなくスクリーンに映っているサッカーやラグビーの映像に目を奪われて、1時間もしないで出る、そんなことを繰り返している。パブは好きです。