最小単位の理論 | Atomic theory

最小単位の理論

最初に
・この理論は精神の世界で起きる事を説明している
・心の中心は良い心ではない、辛さはルールを守っている範囲ならいい。この二つは社会的コスモスで重要←根本的なものが良ければ表面的なものは大抵は悪くてもいいという思想ともいえるだろうか
・最小単位の理論のパターンは一つしかない。代替となる理論は存在しない。この部分だけは今後一切変わることはない←パターンが一つしかない事を否定するのは、例えば意識の代わりとなる他の何かがあると言っているようなものである←AI等、意識が無い存在の様に補完の無い存在もあり得るが、補完があることは理想なのであって、そこを否定するのは人間に意識が無い方が良いと言っている様なものである

補完の定義。とにかくこの様なものだと思っていてください
・補完が形而上的に一番重要な事である
・補完の意味としては、全ての感覚(心)が補完された状態、だろうか
・補完は、全ての対象がある感覚に適用されるが、対象が無い状態としても適用される
・補完の分かりやすい例えとして、補完とはプラトンのいうイデアの中のものが全て完全で欠けていない状態である様な事である(正確には、補完の場合は内容ではなく質が完全で欠けていないということである)

上記のような定義があると、下記のような効能や導出されることがある
※以下に出てくる「アカシジア」とは造語であり本来の意味とは異なる。意味としては、感傷や辛さに近いものの事を指す
・補完にはコスモスの感覚というものが付く。この感覚を持つことで常に調和を感じることができる
・コスモスの感覚とは別にある、補完があるだけで満足してしまうという感覚(この感覚が主体と思われがちだが)は無くすことができる
・心の中心は良い心ではなく補完である
・補完があると、辛さの様なもの(分類としては辛さだけではない)の重さの感覚が増す(辛さの様なもの自体が増すわけではない)効果がある
・補完があると辛いと感じる時、(完全でなく欠けた存在である)理不尽な辛さは無くなる(辛さが避けたいものである事に変わりはないが)←何らかの対象に対しての理不尽感は、理不尽な辛さとは全く別に存在できる
・補完があると、(完全でなく欠けた存在である)辛さと普通の感覚が混ざった感覚というものが使えなくなる。また、辛さは単体だと補完の邪魔をしない。つまり、補完があることで辛さと普通の感覚が分離された状態になる
・補完を守ると普通の感覚と辛さが分離してしまうという問題の解決策として、アカシジアが辛さと普通の感覚が混ざった感覚の代わりになる
・アカシジアは補完の邪魔をしないというのが今の見解である
・アカシジアの深さを追う?形になっていることでアカシジアがあっても補完が守れる←これは普通の状態と同時に存在でき、自然で違和感の無いものである
・アカシジアの深さが辛さと普通の感覚が混ざった感覚の深さの代わりとなる

感覚の分類について(備考)

この理論の中では感覚を、・普通の感覚・アカシジア・辛さ、の三つに分類した。
ここに書いてあることは主観的なものである。科学的に考える場合は、そのままの形で受け取らない方がいいと思われる。

普通の感覚
・普通の感覚は分類としては辛さとは違うが、煩わしさや重さの様なものも含む。
・補完があったとしても、普通の感覚の中の煩わしさに分類される生きている意味を求める様なものを逆に利用することでニヒリズム的にもできる。
・普通の感覚は体験する全てのクオリアに含まれると思われる。アカシジアや辛さは含まれないこともあると思われる。
・普通の感覚の中には得という感覚が含まれていることもあるが、全てに含まれているとは限らない。
・分類としては、アカシジアや辛さ自体に快感を感じることはないが、普通の感覚の傾向によってアカシジアや辛さを好む(快感を感じる)ということがある。
・おそらく普通の感覚をアカシジアの深さに溶かすということができると思われる。
・普通の感覚がアカシジアに溶けているかいないかで、平常心が保てているかどうかが決まると思われる。

アカシジア
・アカシジアという存在は、その他のものと明確に区分できるという性質がある。
・アカシジアの深さが、辛さと普通の感覚が混ざった感覚の深さの代わりになる。
・アカシジアがあることによって普通の感覚と辛さの分離が自然になると思われる。
・アカシジアによって平面ではない(凹凸のある?)全てのクオリアを出せる。
・アカシジアは外的な対象だけではなく、状態自体に生じることもある。
・アカシジアは状況に関わらず内に秘めているものでもあると思われる。
・内に秘めているアカシジアによってケインズの言うアニマルスピリッツが生まれると思われる。
・内に秘めているアカシジアがある故に、マイナスの感覚でしかないアカシジア等の分類が特別視できると思われる。(内に秘めているアカシジアに関係無く、感覚の分類による特別性がある故に、辛さ等のマイナスの感覚を肯定できて良いという説もある。)
・内に秘めているアカシジアによって、普通の感覚は無くならないが、外的な対象のある全てのクオリアにアカシジアの影響を与えると思われる。

辛さ
・辛さという分類は、純粋な辛さではなく内容があると思われる。これは違う可能性もある。
・普通の感覚やアカシジアが常にあることはあるが、辛さは普通の状態では常にあることはないと思われる。
・アカシジアと辛さが同時に出ていないことの方が少ないと思われる。

コーティング
・コーティングによって、感覚の分類(普通の感覚、アカシジア、辛さ)の差違感は無くせると思われる。特にアカシジアの性質を補完を守った上で変えられる本質的なものといえると思われる。本来のアカシジアらしさを生み出しているクオリアを無くす事や、アカシジアに辛さと同じ性質を持たせる事等(以上の二つのコーティングの理論は最小単位の理論において最も発見しにくく重要である可能性がある)、とにかく色々な事ができる。

シームレス
・感覚の分類はシームレスに存在できると思われる。また、これはアカシジアがその他のものと明確に区別できるという性質とは別である。

文章化した最小単位の理論

 最小単位の理論とは、精神の世界で起きる事を説明する理論である。
 この理論では、補完という概念が重要な役割を果たす。補完は、形而上的に一番重要な概念である。定義は、全ての感覚(心)が補完された状態、である。プラトンのイデアに似ているが、正確には補完の場合は内容ではなく質が完全で欠けていないということである。補完は、全ての対象がある感覚に適用されるだけでなく、対象が無い状態としても適用される。
 補完があることで以下のような効能が生まれる。
 一つ目は、コスモスの感覚である。この感覚を持つことで常に調和を感じることができる。これにより、心の中心は(悪や辛さの反対の意味である)良い心ではなく補完になる。また、コスモスの感覚とは別にある、補完があるだけで満足してしまうという感覚(この感覚が主体と思われがちだが)は無くすことができる。
 二つ目は、辛さの様なもの(分類としては辛さだけではない)の重さの感覚が増す効果がある。つまり、辛さの様なものを強く感じ取ることができる。ここで重要なのが、辛さの様なもの自体が増すわけではないということである。
 三つ目は、辛さはルールを守っている範囲ならいいものになる。ここでいうルールとは、補完を破ってしまう完全でなく欠けた存在である、理不尽な辛さというものが無いということである。これは、何らかの対象に対しての理不尽感とは全く別である。また、このルールがあっても辛さが避けたい存在であることに変わりはない。
 以上の効能は、社会的コスモスにおいて重要であり、根本的なものが良ければ表面的なものは大抵は悪くてもいいという思想とも繋がると考える。
 しかし、上記の通り補完を破ってしまう完全でなく欠けた存在が無くなる事によって生じる問題がある。それは辛さと普通の感覚が混ざった感覚というものが使えなくなってしまうということである。辛さと普通の感覚は、単体だと補完の邪魔をしない。そのため普通の感覚と辛さが分離してしまう問題が生じる。
 その問題を解決するためには、アカシジア(以下、造語であり本来の意味とは異なる)という感傷や辛さに近い概念が必要になる。アカシジアは補完の邪魔をしないで、辛さと普通の感覚が混ざった感覚の代わりになる。これは、アカシジアの深さを追う?形というものになっていることで補完が守られた状態で成立するというのが今の見解である。また、これは普通の状態と同時に存在でき、自然で違和感の無いものである。
 以上が最小単位の理論であるが、この理論の概形のパターンは一つしかない。代替となる理論は存在しない。この理論の概形は今後一切変わることはないと考える。これを否定するのは、例えば意識の代わりとなる他の何かがあると言っているようなものである。今のAI等が意識の無い存在である様に補完の無い存在もあり得るが、補完があることは理想なのであって、それを否定するのは人間に意識が無い方が良いと主張しているようなものである。



#哲学 #最小単位の理論 #補完

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