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本を読むことそして、時々、海。

幼い頃から 『 自由にしていいよ 』と言われた途端、思考が止まるタイプでした。
これまためんどくさい性格なので「貴方が言う自由は貴方にとっての自由であって、キミカゲにとっての自由ではないですよね」と感じていて。自分自身の『自由』というものがどこまであってどこまで許されるのか。全くわからないでいました。

「そんなん人それぞれやろ」と言われてしまうとそれまでなのですが。人それぞれだからこそ、怖かったのです。自分自身が持っている自由(自由と信じたもの)を第三者から否定される(される可能性がある)ことが怖かったのです。
だから、その人にとっての自由をキミカゲなりに図ってそれなりに合わせていました。そうしたらもっと自分自身の自由はキミカゲの身から遠ざかっていきました。今ですら 『 自由 』のもつ汎用性が理解出来ていません。

【 自由 】
他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。

Google日本語辞書

社会の常識や身分なんかに縛られないこと、を福澤諭吉は 『 自由 』と翻訳したらしいです。
社会の常識は常識で正しいからあるし、身分は今の時代はあまり感じないかもしれないけれどどうしても性別や年齢で比較されたり批判されたりすることはまだあるかもしれません。
常識が全てじゃないこともわかるし、自分の思うがままに生きた方がいいこともわかります(それなりに生きているので)が。他者と関わる中での 『 自由 』って本当に難しいなと感じます。

そんな 『 自由 』のなかで自由を見失っていた小学4年生のキミカゲは文学と出会ったのでした。

𓏲𓂅𓂅

きっかけは教科書に掲載されていた金子みすゞと当時の担任の先生に勧めてもらった草野心平の詩でした。
金子みすゞが【大漁】で 『 濱は祭りのやうだけど海の中では何萬の鰮のとむらひするだらう。』と表したときに。草野心平が【冬眠】で黒い点を書き、カエルの冬眠を表したときに。キミカゲは初めて 『 自由 』というものを目にしたのでした。
そしてそこで火がついて、オリジナルの詩を書くようになりコンテストにも応募し始めました。他者の自由の匙加減に囚われず己の中で完結できる。どうしようもなく心地いい 『 自由 』を、10歳のキミカゲは手にしたのでした。
「教科書ってめっちゃ面白いやん」となったキミカゲは教科書を隅々まで読むようになり、新聞や食品の裏に書いてある成分表なども読み漁り、最後に本と出会いました。
その本は人生で初めて祖父母に買ってもらった本で、今でも大切に持っています。その本を手にした瞬間、心地いいなくらいでしか感じ取っていなかった自由が形となって可視化され 『 これがじぶんの自由だ 』と確信したのでした。

詩を書くこと、本を読むこと。それらは宇宙のように壮大で、冬の朝のように繊細でした。そして何よりも自由であり、キミカゲの思考力や感受性を育みました。本がない人生が考えられないほど、その先々でも様々な本と出会い、時間を共にしてきました。インプットとアウトプットを繰り返すことで堪らなくじぶんの世界は広がって、これなら、この自由なら、誰からも否定されずに持っていられるなと。初めて手にした自由というものが本能的に気持ちよくて、悦で。仕方なかったことを覚えています。

何よりも 『 己の中で完結する 』という点が、キミカゲを強くしてくれました。未だに本の感想とかどんなの読んでいるとかは聞かれないと答えませんが、それでも生きていけることが嬉しいのです。読み終えたら必ず感想を書いて、共有したり、それこそその本を通して第三者と関わったりする、みたいな。そういった必要性(自由の定義でいう縛り?)が文学にはなくて。たぶんもっと様々なことを掘っていけばそういった自由はあるのかもしれませんが、当時のキミカゲにはそれが精一杯の自由でその自由の羽で色んな思想の世界を飛び回りました。

じぶんのタイミングで手に取って、じぶんのタイミングで読み進めて、じぶんのタイミングで余韻に浸れる。
小学生のキミカゲにとってこの自由は圧倒的で、みるみるこの自由にハマっていきました。本当に気持ちよかった、ただただ気持ちよかったから。

この自由を見つけて大事にしてきたお陰で、色んな作家さんの本に出会って感化されて今もこうやって文章を書くことが出来ているなと感じます。
ここに書いて誰でも閲覧できるようにしている時点で第三者が関わってはいるのですが、じぶんの自由と向き合ってたまに離れていく感性を取り戻すために書いている節があるので割と己で完結させてしまっているのかもしれません(だから概ね自分語りの話ばかりになる)。

本を読みたい気持ちはあっても買うまでにいかないとか、買ってみたものの積読になるとか。そもそも本なんて読もうと思ったことないし買ったこともないって方もいはるとおもいます。し、キミカゲは本を読まなくても生きていける人生であるのなら本は別に読まなくてもいいだろ派です。
じぶんでも今月全然読まんかったな、みたいな月余裕でありますし。

「 本を読まないということは、その人が孤独ではないといふ証拠である 」

太宰治

まさしくこの言葉の通りです。
キミカゲはキミカゲなりの孤独の中で自由とはなんぞやと頭を抱えていた所出会ったものが文学で、読書でした。本を読まない人って、様々なもので満たされて生きているんじゃないかとキミカゲはおもいます。
それは、食べ物でもいいし音楽でもいいし人間関係でもいいし。何かしらに満たされて孤独と対峙する時間が必要のない(自由は何なのかと頭抱えることもしなくていい)人生を送ってエンジョイしているのだと勝手におもっています。ちょっと、羨ましかったりします。

「 本読んでて偉いね、本とか読もうとおもったことないもんな 」と同級生に言われた時、本読まんで生きれるなら読まんでいいし、現実世界をうまく生きた方がなんぼかいいよと応えたことがあって。「 でも本読んでるほうが賢くみえるし、、 」と言われて、ああこの人は本をじぶんをよく見せるアイテムとしか思ってないのかと勝手にガッカリしたこともありました。
本を読むのは、何よりも孤独で、でもそのなかで自由にたどり着いて、思うがままに世界を楽しめるからです。賢くなりたいとかそう見せたいとかそいうのではなく、ただ自由というものが存在する場所が文学で読書だっただけなのです(やっと言語化に成功した)(そして孤独なのである)。

𓏲𓂅𓂅

あともう1つ。自由を感じる瞬間は、海に行くこと。
泳いだり、魚を釣ったりはしませんが。ただ海へ途方もなく散歩して波音を聞いて遠くを眺めている時間がとてつもなく自由なのです。
海や湖など水が大体を締めるエリアってかなり無欲なんですよね、無欲フィールドって呼んでます(人の気?が集まらないから)。
普段生きていて人間が持っている気(欲みたいなもの、それこそ縛られているようなもの)が水辺では無効になるんです。だから水族館にもよく行くし、日常で適度に手を洗います(スピってはないよ)。

海に行って自由を感じたのもじぶんの行動で獲得したものです。高校生になって電車通学になって、毎朝ほぼ始発で高校に向かわないと間に合わなくて冬はいつも日の出前の暗い道を抜けてバスに乗って神戸三ノ宮からJRに乗り換え、東加古川まで通っていました。その途中に須磨駅と舞子駅があるのですが(ヘッダーの画像は舞子駅降りてあすぐのアジュール舞子)、そこで降りると目の前はすぐ海で、通学中に途中下車してあえて浜辺で日の出を浴びるということをしていました。これが自身の行動で掴み取った自由でした。

高校生になって行動範囲も広がって、学校にさえ間に合えば途中下車も許される。神戸市北区の山の中でのそのそと育った田舎者がシティガールになって海側に進出して得た自由。これもとても心地よく、毎朝のルーティンになっていました。
ですがこの自由が、あまりにも自由過ぎて。自由の限度を見失いました。朝起きて準備して、学校に向かう。その道中で海に行って朝日を見る。その後浜辺で本を数ページ読んで学校に向かう、見事遅刻。キミカゲにとっての最大の自由を発揮して、何度も学年主任の先生に怒られました。

『 キミカゲさんが思うように、自由に生きたらいいよ 』と高校生になってから言われることが増えてへぇ〜じゃあ好きにしよ〜みたいな軽い気持ちになってしまって、自由を駆使した挙句の遅刻はとても良くなかったみたいです。またここで「 じゃあ自由ってなんやねん 」と。「 自由に生きるって制限されるってこと? 」 とまた頭悩ませるのでした(たぶん自由と好きにするって違うんだろうなあとここら辺で薄々気づく)。

遅刻した理由に「海を見ていた」と書いた生徒
生きててよかった

トンネルの出口手前

あまりにも海で過ごしすぎて学校に行くのが遅くなってしまったある日、遅刻理由の紙に「 海を見ていた 」と記入したら。担任の先生だけはその自由を認めてくれて、しかも短歌にまでしてくれました。キミカゲが学校に来るのが遅いしなんの連絡もないのでめっちゃ心配したんだぞ!と怒られつつも、その遅刻理由を見た時に何故か担任の先生は感銘を受けていて。「 こんなこと書く生徒初めてですよ 」と言われ、短歌になりました。

𓏲𓂅𓂅

人生の様々なタイミングで息詰まることはたくさんありますが、その都度本を読んだり海に散歩しに行ったりして。なんとか人間生活を保っています。自由ってなんやねん、ですが。自由っていうのはやっぱり結構難しいです。ある程度ルールがあったほうが(校則みたいなね)キミカゲは若干生きやすいのかもしれません。じぶんが思い描いた自由で誰かを傷つけたり、誰かに否定されたりするのはまだやっぱり怖いし。目に見えないからこそ大事にしたいなとおもう部分もあります。

またアイドルをしていくなかで音楽くらいは自由であってくれよ、と感じる瞬間もあります。
音楽がある生活が幼い頃から当たり前すぎて、音楽の自由性に気づくのは遅かったのですが。せめてこの不自由な世界(キミカゲはそう思っている)でも音楽だけは自由であってくれと。
音楽は強制されるものではないし、させるものでもなくて。
「 LIVE観にきてよ 」ってその一言がファンの方々の自由を奪ったり、強制させしまうのではないかと怯えています。せめて音が鳴る場所くらいは自由であって欲しいというエゴエゴのエゴとでもやっぱりLIVEは観てほしいし、STELLASTELLAの音楽が幅広く色んな人に届いてほしいしという感情がぶつかり合っているのです(解決の日は遠い)。

𓏲𓂅𓂅

これを読んでくれはっているみなさんはどうでしょうか。じぶんのためだけの、じぶんにしかない自由は持っていますでしょうか。
『 自由に生きる 』という自由に束縛されたり強制されたりして、本質を見失ってしまうことがあるかとおもいますが。じぶんなりの自由のルーツを辿ってみるのは面白いかもしれませんし、キミカゲはそういったことに非常に興味があります。ので、もし「 これは間違いなくじぶんの自由だろ 」とか「 結構オリジナルな自由かも 」という思い当たる節があればぜひキミカゲに共有していただけると嬉しい限りです。

キミカゲの自由は、本を読むことそして、時々海へ散歩しにいくこと。あと、音楽。自由に自由を重ねてたまにやりすぎやでと注意されることもある人生ですが、それもまた一興で。
貴方の持つ自由がこの社会に当たり前に存在する自由や、誰かの自由とぶつかって無かったことにされませんようにと祈る、夜なのでした。

おわり

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