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涙で溺れたあの日の一言

あらすじ

 高校二年の冬、ボクらは海にいた。
 ボクらを海から遠ざけるような冷たい風が吹いていたが、その風が吹く度に二人の距離は少しずつ近づいた。
 今日ボクはキミに伝えたいことがあってここにいる。どうか、聞いて欲しい。キミは何も疑わず、冬の夜みたく深い瞳でボクを見つめる。
 伝えたい想いを言葉にしたいのに上手に出来ない。「焦らなくてもいいよ」と少し不安げなキミ。でもボクは伝えたい。だけど言葉じゃなくて涙が溢れ出した。そしたら、どうしてかわからないけど、キミの目からも大粒の涙が溢れ出した。そして、やっとのおもいで告げた一言は涙に溺れて呆気なく波音に掻き消されてしまった。そしてやるせないまま月日は流れて高校三年の春、ボクは明日世界が終わりを迎えることを知る。

プロローグ

 「世界はいつだって、どうしようもない」
 ボクの小さな声なんてどこにも、誰にも届かない。そんなことを考えたって、もうどうしようもないことにだって気がついている。ずっと、気がついたフリをし続けている。

 「世界はいつだって、仕方ない」
 ワタシの小さな言葉なんてどこにも、誰にも届かない。もう届けたい人には、届かない。何もかもを諦めている、仕方ないって諦めたフリをしている。本当はただ、怖いだけ。

 こんな世界を知った気になって納得したフリをして過ごした高校一年は、あっという間だった。桜が咲いて、プール授業の後の気だるさに負けて、茜色の夕陽が校舎を包んで、裂けるくらいの冷たい風が頬を掠めた。特に代わり映えのない、普通の日常が過ぎた。ただ、高校二年の春。キミと出会って驚くほどにでも必然的に日常の景色が変わる。ボクはどうしようもなかったこの世界で、キミという光に出会う。

 そしてあの日、波音で掻き消された声。
 ボクはキミに伝えたいことが確かにあった。でも、素直に伝えられないボクはその気持ちを一通の手紙に綴ることにした。
 そう、明日世界が終わると知ったときに。

Ⅰ 明日
ボク

 放課後の教室はボクひとりにはあまりにも広い。
 目の前にある「進路調査について」と書かれたその紙は今後の人生を決めるには薄く、現実を見据えるにはどこか白く浮いて見えた。高校三年生になった今日、さっそく近すぎず遠すぎない未来を考えさせられていて、すぐに答えが書けないボクは放課後誰もいない教室で椅子の背に体重をかけたりかけなかったりしている。新しい学年になったばかりでまだこれからの学校生活もイメージ出来ていないのに、約一年後のことなんてたった50分の授業ではまとめられない。なぜならボクは昔から素直じゃないんだ。

 何時間も未来のことについて考えながら、同時に過去のあの日のことを思い出していた。あの日の自分は今こうやって進路について悩んでいるなんて想像すらしていなかった。それに、あの時のボクはそんなことを考える余裕なんて微塵も存在していなかったし。ただその瞬間を生きることに必死で、目の前にいる特別なあの人に伝えたい想いがあって頭がそればかりで埋め尽くされていた気がする。


 高校二年生の春、ボクらは出会った。
 ホームルームの時間に成り行きで決まった図書委員。先生に提出する紙に書かれたボクの名前の下にキミの名前が書かれていた。
 ボクらは委員会があったり、図書室の受付当番がある日は業務連絡と軽い日常会話しか交わさなかった。体育の先生が熱血すぎて困っちゃうよねとか、英語の授業で隣の席同士ペアを組むのは気まずいからひとりがいいよねだとか。当たり障りない、平たい会話を数回交わしては各々作業に戻ったり、手元にある本を読むフリをしてページを捲りその場をやり過ごした。

 きっかけは些細なことだった。
 委員会が少し長引いたある夏の日。キミが冷たい声でボクに言った。
「海が見たい」
 今までそんなキミの声を一度も聞いたことが無かったボクは動揺して、でもどうしようもなくて素っ気ない態度で返事をすることしかできなかった。
 学校からバスに乗って三十分。もう夜に近づいた空気が何もかもを飲み込み始めるのを窓から眺める。バスに乗っている間、終始無言でキミは少し苦しそうに俯いて膝の上で拳を握り締めていた。
 バスを降りると目の前には、真っ黒い海が広がっていた。キミはおもむろに走り出し、荷物を放り投げ海を目指す。
「暗いから、危ないよ」
 そんなボクの声は届かない。昔から自分の声に自信がなくて、大きな声が出せない。声変わりしたのかしていないのか分らないこの声が年齢のせいか性格のせいかずっと気になっていた。
 ボクは浜辺に座って、キミは靴を履いたまま海に入って波に合わせて呼吸をしてどうにか気持ちを落ち着かせようとしていた。海が見たいだけだと思っていたボクはキミの少し予想外な行動に困惑しつつも、そっと見守っておくことにした。空はみるみる暗くなって海にキミがいることが確認できるかどうか怪しいくらいに光を奪っていった。
 そしてしばらくして、呼吸が整ったキミはずぶ濡れのまま散乱した荷物を拾い上げ「帰る」とだけ告げてバス停へと向かった。
 そうしてこの日からボクは、キミと海に来るようになった。

 そんなことを思い出したって目の前の紙は白紙のままだ。第三希望まで問われたボクの人生は一つも思いつかない。ボクは自信を持って言える、この世界に何一つ期待などしていないと。
 ボクはこれからの未来を想像して、その中にこの世界は存在しない。そして、この世界のこれからを想像して、その中にボクは存在しない。ボクはこの世界にとって別にあってもなくてもいい存在なのだ。これといって得意なこともなければ、何か社会に貢献出来る特別な能力もない。たくさんの人とコミニュケーションをとるのが苦手で高校三年間で結局図書委員でしか人と接してこなかったし、慕ってくれる後輩も憧れる先輩もいない。同級生の友達はあの人だけだ。
 そんなプラスもマイナスも感じられないただ真っ直ぐな道を進んでいくだけの日々にボクは飽きていた。そしてカッコつけて「飽きた」なんて口にして現状を変えようと何かアクションを起こすこともなく、ただ寝て起きてを繰り返す自分が心底嫌い。そんな自分自身と生きていたいと思えなくて、だからと言って自ら終わりを求めることもなくて、どうしようもない生き方をしている。
 もう本当は、眠りにつくように自然に何もかもが終わればいいと思っているんだ。

 完全下校を告げるアナウンスが教室に響いた。
 目の前の紙を雑に鞄に閉まって、帰ろうと席を立つ。
 その時、スマホのバイブが机に振動した。
 「誰からだろう」
 タップして開いた通知は誰からの連絡でもなく、とあるニュースだった。
 【世界の終わりに備えてください】
 そんな見出しがスマホの画面から浮き出て見えた。目を疑いつつも心のどこかで何かが少し湧き立つ感覚を覚える。
 内容はいたってシンプルだ。そう、明日この世界が、今ボクが生きているこの世界が、終わるらしい。かなりのサイズの隕石が地球に接近し、専門家によるとそのまま落下してくるという。もう事態は避けられない状態にあり、世界は終わる。
 ニュースの文面を見ても嘘みたいで頬が引き攣った。冗談でしょと思う反面、もしこれが本当だったらと焦る気持ち。いや、これは焦りではなくて、そんな優しいものではなくて。ああ、そうか。ボクは今この状況に興奮している。自分で自分を気持ち悪いと感じた途端、額が少し汗ばんでいるのに気づいた。
 「明日、世界が、終わる」
 改めて口にしてみても、どこか空気みたいに軽くて嘘みたいに嘘っぽい。ボクは何度も口にした。なぜか分らないけど、口にしてみたくて仕方ない。
 ついさっきまで、一年後の未来を考えていたのに。そんなことどうでもいいと笑うように、明日地球に隕石が接近して落下する。なんだそれ、なんだよそれ。
 そのニュースは瞬く間に拡散され、スマホの画面はその情報で溢れていた。
 『備えてくださいなんてあまりにも勝手すぎる』
 『この状況どうにかならないの?』
 『誰も助からないのか…』
 『何かのデマじゃなくて?』
 明日世界が終わることを疑う声が大半だった。SNSを開けばその事実が本当かどうか争っている。確かに、無責任なことばかり書かれてはいるがもう変え難い事実でしかないのならそれを受け入れるしか他にない。
 ひとり興奮していたボクは呼吸を整えて、ニュースのリンクをコピーした。そして、メッセージを開きあの人へと送る。
 「明日、海が見たい」
と、一言添えて。

ワタシ

 放課後の図書室はいつも人が疎らだ。
 若者の読書離れが心配されるが、一定数の若者は本を読んでいるとワタシは思う。そしてワタシはその一定数の内の一人で、今日もまた図書室で静かにページを捲っている。
 本の内容は気弱な男子高校生の主人公が、ひょんなことから世界を救う羽目になるみたいなあるあるだけれどそのひたむきな強さと傷ついてでも進んでいく勇気が魅力的でこのシリーズは全て揃えている。だけどワタシは初めてこの本を読んだ時、あまりにも自分自身とはかけ離れた存在の主人公に絶望した。ワタシはそんなに優しくはなれないから。

 この本を読んでいると、いつもあの人の事を思い浮かべる。主人公が持つ不器用な優しさとあの人が持つ不確かな優しさがどうしようもなく似ているから。諦めきっていたこの世界に、ある日突然ストーリー性が出たのもあの人のお陰だ。一緒にいると、不思議な感覚に陥る。まるで物語の中の世界みたいに時間が進む。あの人はきっと自分が生きている世界を酷く嫌っているのかも知れないが、ワタシはそんな不思議な世界が気に入っているのだ。


 高校二年生の春、ワタシたちは出会った。
 たまたま同じクラスで図書委員になり、学校生活の多くの時間を共にすることとなった。あまり仲良くはなかったけれど、不器用ながらも接してくれる優しさにいつの間にか心を許していたように思う。だけどワタシは、そういう気持ちを露わにするのが苦手で多分きっとたくさんキミのことを困らせていた。

 あの日のワタシはどうしようもなかった。
 いつものことだ、いつものことだけどもう本当に消えてしまいたかったあの日。ワタシは無意識に口にしていた。
 「海が見たい」
 その言葉にキミは素っ気なく返事をするだけだった。
 学校からバスに乗って海に向かっている間の三十分はいつもより長く感じた。何か話さなくちゃ、何かしなきゃと頭を回転させてはいたものの心が全く追いつかなかった。キミは窓の外に目をやっていたから気がついていなかったかもしれないけれど、ワタシはすごく泣きそうだった。上手に息ができなくて、勝手に手が震えた。
 バス停に降り立ってワタシはキミを置き去りにして真っ先に海へと走って行った。もう何もかもがどうでもよくて目の前に広がる真っ黒い海へと走って行った。
 本当はその時、キミは引き止めてくれると思っていた。「危ないよ」と手を掴んで海に入ることを止めてくれると思っていたのだ。けれど、キミは浜辺に座って遠くからワタシのことを眺めているだけだった。その姿を見た時ワタシは安心した、キミが持っている全ての優しさでワタシを見守ってくれていると感じたからだ。出会ってまだ日は浅く、そんなにお互いのことを知っていた訳では無いけれどワタシたちは自然と心地のいい距離感でいられた。
 気がつけばもう辺りは真っ暗で、不意に夜の海の冷たさを感じた。昔から心がキャパオーバーになると海に来ていたワタシは、その度に波に合わせて呼吸をして気持ちを落ち着かせていた。そうして我に返り濡れた自分の姿を見てとてつもない恥ずかしさに見舞われた。ワタシは急いで海から浜辺へ向かい散乱した荷物を拾い上げ「帰る」とだけ告げてバス停へと向かった。
 この日からワタシは、キミを海に誘うようになった。


 そんな物語の中みたいな記憶を思い出してまた勝手に絶望していた。あの日の出来事は未だに夢だったんじゃないかと疑っている。なんだか現実味が無くて、でも確かにワタシはびしょ濡れで。でも、真っ暗な海に入ったってキミに見守って貰ったって何も変わらないこの日常がワタシは許せなかった。だってワタシの生きている世界はいつも中途半端だから。
 何もかも中途半端なワタシの人生は何度だってワタシの心を傷つけた。自分が誰かに抱く気持ちも、誰かがワタシに抱く気持ちも中途半端で、テストの成績も学校生活も全部中途半端だった。
 本当は完璧な人生を生きてみたかったのだと思う。良好な友人関係、充実した放課後、目の前にある無数の選択肢、オレンジの光が灯る家庭。でも、中途半端なことが許せないでいるくせにかといってその現状を改善しようと行動することはない。それはもう全てが仕方のないこと、だからだ。
 全て諦めてしまった方が上手くいくことにいつからか気づいてしまった。だから中途半端だと分かっていても、こうすれば追い求める完璧に近づけるかもしれないと気づいたとしても何もしない。とにかく、もう傷つきたくはなかった。もう中途半端にも完璧にも傷つけられたくはなかった。だから、全てのことを望まないフリをして生きることを選んだ。選んだのはワタシ自身なのに、中途半端な世界よりもそうやって達観して理解して「大丈夫だ、これでいい」と納得したフリをしている自分自身が一番許せないでいた。いっそ誰かに壊された方がマシなんだ、こんな人生。


 完全下校を告げるアナウンスはなんでこんなにも寂しい気持ちになるのだろうか。
 色々思い出してヒートアップしていた心を落ち着かせて、帰ろうと席を立つ。
 そのとき、スマホの通知音が鳴った。
 「え、誰から」
 タップして開いた通知はあの人からだった。そのメッセージにはニュースのリンクが貼り付けてあった。なんの迷いもなくタップして、画面が切り替わる。
 【世界の終わりに備えてください】
 突然のことに、目を疑った。
 「なにそれ、」
 思わず声が漏れた。もう一度、なにそれと言ってみたがしっくりこない。図書室に残っていたわずかな他の生徒も思い思いの言葉を口にしている。
 『世界の終わりってなに?』
 聞こえてくる声にワタシも同意した。終わるって一体何が?世界って一体どこの世界が?しかも、明日?
 内容は笑ってしまうほどシンプルだった。隕石が地球に落下する、それだけ。ただそれだけ。そんなの何度も本で読んだ展開だ。でもいつもヒーローが助けにくるか、主人公が何としてでも隕石を食い止めた。けれど、中途半端で何でもないこの現実世界でそんな重大な責任を負う人間は現れないみたいだ。やっぱりそうなんだ。
 そのニュースはSNS上で瞬く間に拡散され、明日世界が終わることを少し経って実感した。本当のことなのだ。どうしようもない事実、明日世界が終わるという誰にも抗えないシナリオ。

 このニュースを見て心臓が少しうるさく鳴った。そしてメッセージの続きを読む。ああ、そうか。ワタシの中途半端な人生を終わらせる物語がキミのこの一言でこれから始まる。
 「明日、海が見たい」
 本当にキミは、主人公みたいだ。

Ⅱ 今日
ボク

 何かを言いかけて、目が覚めた。

 窓の外が白んでいる。ぼんやりとした意識の中で昨日のことを思い出していた。
 【世界の終わりに備えてください】
 放課後の教室でひとり、進路調査書を目の前にして自分の過去を呑気に思い出していたら、そんな無責任な見出しがついたニュースに突然未来を奪われたんだっけ。
 スマホの光に目を細めながらSNSを開くと、やっぱり世界が終わることについての記事で埋め尽くされていた。
 「夢じゃなかったんだ」
 どこか現実離れした『世界の終わり』を夢だと思うのは正しいことだと思う。疑って当然だ。でもそれは、お風呂に入って布団で寝て起きたって変わりようのない事実らしい。
 目覚めてから世界の終わりについて考えつつ、今日見た夢を思い返していた。いつもだ、いつも。こんなどうしようもないときに見る夢だった。ボクが、どうしようもなく溢れてしまったあの日のこと。


 高校二年の冬、ボクらは海にいた。
 その日の放課後、珍しくボクから「海へ行きたい」とキミを誘った。特に断る理由もなかったであろうキミはボクを置いていくかのように足早でバス停へと向かった。
 ボクはその日、どうしてもキミに伝えたいことがあった。でもその想いを教室や下校道、図書館で伝えるのは違う気がして、ボクらにぴったりな場所を選んだら海になった。この頃のボクらは同じ時間の大半を海で過ごしていた。
 海に到着してすぐに浜辺で二人腰を下ろした。冬の海は何か言いたげに荒れていた、まるでボクの心みたいだった。
 ボクらを海から遠ざけるような凍てついた風が吹いていたが、その風が吹くたびに二人の距離が少しずつ近づいていた。
 伝えたい想いというのがしっかりあることはあるのだが、どうも上手な伝え方がわからない。どの順番で言葉にしてどんなトーンで話し始めてキミに結論を追い求めてもらうべきかそうじゃないのかなんて、今考えるとくだらないことで頭がいっぱいいっぱいだった。
 別に、この想いは伝えたって仕方のないことだとボクは思っていた。その一言で次の日からこの世界に期待できるようになるわけじゃない。でも、小さい頃から素直じゃなかったボクがどうしてもキミの前じゃ素直になりたいと思ったからどうしてもキミに聞いてもらいたいことがあったから、海に来ている。素直になるってもう少し優しくて心地の良いものだと思っていた。実際は、目の前に広がる海のように心は荒むし何か責任みたいな物がボクの首を絞めてより一層変な声になってしまいそうなくらいに息苦しかった。こんな思いをするのならば、素直になんてならない方が楽だなと思うほどに。
 キミは相変わらず終始無言で、ずっと隣にいてくれた。どこか遠いところを見るようにでも隣にいるボクから離れないように、適切な距離感と温度。なんだかいつもよりキミの存在が柔らかく感じた。

 海に着いて、何時間経っただろうか。
 未だにボクは口を開けないでいた。その隣には変わらずキミが座っていた。もう空が暗くなり始め、凍てつく風がボクらの感覚を奪っていった。
 すると、突然ボクの右手が熱を帯びた。
 一瞬春風が吹いたのかと錯覚してしまうほど柔らかで眠気を感じる温度。握り返した細い指と薄い掌でキミだと分かった。
 「焦らなくてもいいよ」
 その一言がボクの心の鍵を破壊し、ずっと溜めていたあれこれが一気に溢れ出た。伝えたい想い以外のそのときにはどうでもいいことだって溢れてきて、言葉にならない想いがいつの間にか涙となってボクの顔をぐしゃぐしゃにしていた。
 「大丈夫、大丈夫」
 涙で喉が詰まって、上手く言葉が話せなかった。何度もしゃくり上げるボクは小さな子どもみたいだ。
 「わからないよ、そんなの。でも、そうやって大丈夫って言葉にして自分に言い聞かせないとダメなんだよ。もう誰も助けてくれないから、もう誰も信じられないから。自分の大丈夫は自分で埋めなくちゃいけないんだよ。」
 キミは相変わらず冬の夜みたいに深い瞳で絶望を捉え、寝る前の子どもに読み聞かせをするようなトーンで話す。
 「ボクは、自分のことを大丈夫と言えるほど強くないんだよ」
 恥ずかしかった。この世界に期待することをやめて人との関わりをあしらい、何事も「飽きた」の一言で向き合わないできたくせに。たった一瞬で壊れてしまう脆い心で生きていることが、とても恥ずかしかった。誰の前でも泣かないと小さい頃の自分と約束していたのに、今日はもうどうしようもなかった。
 「そんなのもう知ってるよ」と言うキミは空いている片方の手で少し強くボクの涙を拭った。拭っても拭っても溢れ出てくる涙を、キミは指先を赤くして拭ってくれた。
 「焦らなくてもいいよ。でも、キミがそんな弱い自分を曝け出してまで伝えたい想いがあるならワタシは待つよ。いつまでも、待つ。」
 キミの放つ言葉全ては一つ一つが力強くて思わず寄りかかってしまいそうになった。でも、どこか不安を感じる。
 そのとき、キミの目から大粒の涙が溢れ出した。
 「なんで、」ボクにはキミが泣く理由が分からなかったし、その理由を聞きたいのに言葉よりも涙が溢れた。それから二人して冬の海辺で泣き喚いた。愛犬が死んだときみたいに、大切なおもちゃを壊してしまったときみたいに。誰のことも気にせず自分の感情に素直に従って泣いた。

 そしてボクは、その溢れ出す涙を無理やり拭って呼吸を整え、やっとの思いで告げた。
 「どうか、ボクを」
 やっとの思いで告げた一言は、無理やり拭っても溢れ出てくる涙に溺れてあっけなく波音にかき消されてしまった。こんなそばにいてくれているキミにすら届かなかった。
 キミはその言葉を聞き返すことなく、一度ボクと目を合わせてから繋いでいた手の甲に優しく唇で触れた。

 あの日のことをボクは未だに後悔している。
 必死に素直になって、伝えようとした想いが伝えられなかったこと。後悔のほかにしようがない。

 ボクはどうしてもこの後悔を胸にしたまま、今日世界が終わるという事実を受け入れたくなかった。全てがまっさらになる前に、もう一度素直になりたいと思う。けど、またあの日みたいに上手にできなかったらボクはとてつもない後悔と共にこの世界から消えてくんだと思うと怖くなる。全てが完璧にこなせるのならばそれがいい。でも上手に出来るかどうかなんてわからない。

どうすれば間違うことなく真っ直ぐあの人にこの想いを伝えられるのか。少し考えて、一つ案が浮かぶ。
 「そうか、手紙」
 手紙ならどうだろうか。言葉を口にするより文字にして伝えるほうがボクは得意だ。それに、慎重に書き連ねれば誤解も生まれないだろう。一方的に渡してしまえばいいだけの話。いいじゃないか、手紙。
 思い立ったボクはベットから起き上がり、机や引き出しを探し一枚の便箋を見つけた。封筒は見つからなかったが、どうせ世界は終わるんだ。そんな小さなこと気にしてたって仕方ない。

 いざ、椅子に座って机の上の便箋と向き合う。ふと、進路調査書が頭をよぎる。
 「違う、もう未来なんてないから。ボクは今のボクとあの日の後悔と向き合う。そしてあの人に、伝える。」
 目を閉じて一度、深呼吸をする。
 『キミへ』
 ペンを握る手が少し震える。息が詰まる。頭の中がどうしたらいいのか分からなくなる。でもそれでも、ボクの中にあるあの人への想いとあの日伝えられなかった後悔を引っ張り出す。もうこれで、最期だから。


 『ボクより』
 と書き終えた頃には、太陽が真上に昇っていた。集中し過ぎた割に書くことに手こずり、一枚の便箋に書いては消してを繰り返し、紙にはシワがついていた。
 今日世界が終わるっていうのに、一体何をしているのだろうか。
 本当は、会いたい人に会うとか行きたい場所に行くとか家族と団欒するとかそういうことが必要なんじゃないのか。でも、ボクにとってはそれはあの人と会うことで、あの人と一緒に世界の終わりを海で迎えることなのだろうか。

 今この世界で、たくさんの人が終わりの支度を始めているのだろう。みんなどんな想いでどんな時間を過ごしているのだろうか。
 またボクはベットに横になる。
 ボクはこの世界にずっと飽きていた。生きていたって意味がないと思い続けていた。いっその事、誰かがこの世界を壊してくれればそれでいい、だなんて思っていた。でもまさか、こんなにも突然に世界が終わるだなんてこと思いもよらなかった。けど、前日にニュースになったのはある意味ラッキーだったと思う。終わりに向かってどう過ごすか一度考えられるタイミングが作られて、ある程度心構えが出来ただろうから。
 でもやっぱり、現実味がない。感覚が遠い、世界の終わりなんて。何度も小説でこの展開を迎えたことがあっても実際何も出来ないんだ。
 まだボクは、あの人と一緒に海で世界の終わりを迎えられるだけ幸せ者だと思う。きっと、一人で何にも変え難い虚無と共にこの世界から消えていく人も少なからずいるはずだから。隣にあの人が居てくれることを想像するだけで少し安心できる。世界の終わりに対する違和感は感じるもののあまり恐怖はなかった。昔からどうしようもないことはどうしようもないこととして、受け入れてきたから。今回もそんな気持ちでこの世界の終わりという事実を、受け入れているのだろう。

 不意に眠気がやってきて、ボクは目を閉じた。しっかりと世界の終わりを目に焼き付けるためにこの身体は一旦、睡眠をとろうとしている。笑ってしまう、ボクはどこまでも図太い神経の持ち主だ。でも、眠ったまま世界が終わってしまうことが怖くて一応アラームを設定しておくことにした。
 何だか自分自身に呆れた。世界の終わりを前にしてこんなにも呑気な自分。少しくらい足掻いたっていいじゃないか。でももうボクの心は手紙を書き終えた時点で満たされていた。もう何も思い残すことはない。
 十七歳という短い人生だったかもしれないが、ボクは充分に生きたつもりでいる。春を十七回も知っていて、どうしようもない未来があることを受け入れて生きてきた。もうずっと何もかもを終わらせたかった。だからこれでいいんだ。世界の終わりに全て任せてしまえばいいと、心から思う。

 遠のいていく意識の中でまたボクは何かを言いかけていた。目覚めたらボクは海へと向かう。そして、ボクはあの人とどうしようもなく、世界の終わりを迎える。

ワタシ 

 リビングは今日もあの日のままだ。

 洗濯、掃除、最低限はする。けれど、このリビングを片付ける気には到底ならない。破片になって散らかった食器、傷まみれの食卓テーブル、床に落ちた家族写真。まるでドラマのセットみたいな光景だ。

 見るだけで嫌気がさすこのリビングともやっとお別れだ。今日、世界は終わる。ワタシがわざわざ手をつけなくてもこのリビングは勝手に消し去られる。なんだかそれだけでいつもより心が軽くなる気がした。
 正直、疑った。世界が終わるなんてそう簡単に信じられることじゃない。
 【世界の終わりに備えてください】
 なんて見出し、普通に馬鹿げている。一度見ただけで理解できる内容じゃない。でも、ネットニュースも何もかもこの抗えない終わりを認める内容で溢れていた。
 「まあ仕方ないか」
 またそんなことを思って昨日は眠りについた。

 この荒れ果てたリビングもワタシは仕方ないと受け入れてあの日のままにしていた。
 もうしばらく、母の顔も父の顔も見ていない。母は実家に帰っていて父の行方は分からない。でもそんなことワタシにとってはどうでもいい。そう、どうでもいいんだ。
 こんなリビング、今までのワタシたちなら有り得なかった。絵に描いたような家庭だったのに、だったのに。いつからかその空間はワタシを蝕む空間となり呆気なく終わった。いわゆるDVとやらで父は突然母を苦しめ、母の傷ついた心はワタシへ投げつけられた。どれだけ願っても昔みたいには戻れない、わかっていてもワタシは願うことしか出来なかった。そして、決定的に家族が終わったあの日。ワタシはもう海に行くことすら出来ないほど心が疲弊していた。自分の部屋に閉じこもって家中に響く父の怒声と母の悲鳴をどうにか耳を塞いでやり過ごし、いつものことだからとその状況を手放した。翌日、朝起きてリビングの扉を開けたときワタシは絶望した。終わりってこういうことなんだ、全部ぐちゃぐちゃになって今まで当然のように存在したあれこれは跡形も無く消える。高校二年生のワタシは全てを諦めた。
 「全部全部、仕方ない」
 そう口にして、静かに自室へと向かった。

 そして今日、世界が終わることもワタシにとっては仕方のないことだ。いつも通りの夜を過ごして、朝を迎え、歯磨きをして。でも不意に思い立って、世界の終わりに必要そうなものを鞄に詰めることにした。なぜだろう、気分は遠足前みたいに軽くて楽しい。シャボン玉を持って行こうか、お菓子はどのくらい必要か、もし流れ星が見られるとしたら望遠鏡も必要かな、とか。もう明日からはこの世界は存在しないのに、ワタシは小さな思い出を残そうとしていたことに気づく。
 「あの日、こんなことがあってさ、」
 なんて誰にも話せないのに、ワタシは何か最後に心に遺るものを探そうとしている。
 「世界ってどうやって終わるんだろう」
 そんなことを考えながら支度を進めた。たぶんきっと誰も世界の終わり方なんて知らない。

 そのときふと、あの人の顔が頭をよぎった。気のせいかもしれない。でも確かに、寂しそうに笑うあの人を思い出した。
 「最期だからいいよね、最期だし。」
 ワタシはおもむろにペンを握って、ノートを破り、机に向かった。
 なぜだろう、わからないけれど。特別な気がする。何かあの人に伝えないといけない、そんな気がする。

 「行ってきます」
 行ってらっしゃいなんて言葉は聞こえない。だけど、心のどこかで期待している自分がいてその思いを消し去るように玄関の扉を閉めた。
 家から少し歩いて、バスに乗る。彼と海で待ち合わせしている時間までは余裕があるため、ワタシは最後にあの場所へと向かう。
 しばらくして、バスが駅に到着しそこから歩いていくとこの街を一望できる高台に着いた。ここは、ワタシの、家族の、思い出の場所。
 小さい頃、父が夜にいきなりドライブに行こうと言い出し、困った顔をしつつも嬉しそうな母と、いつもは寝ているはずの時間に外に出るワクワクを抑えきれないでいるワタシと三人でこの高台に来た。
 とても見晴らしがよくて、空気もいい。その日の夜空はたくさんの星で埋め尽くされ、遠足で行ったプラネタリウムを思い出した。家族三人でベンチに腰掛け、確かあたたかいココアを飲んだ。その日の夜はワタシにとってとても特別でベタな発想かもしれないけれどこの時間が永遠に続けばなんて思っていた。
 「また、ここにこようね」
 ワタシは両隣に座る二人に笑顔でこう言った気がする。
 「約束ね」
 と言って、ワタシの手を握り返してくれた両親。
 どうして、もうなにも、叶わないんだろう。

 特別だけど切ない思い出をひとりでぽつぽつと思い出していた。今日の天気は快晴。高台から街を見るといつもの海までハッキリと目視出来て、その海の先までも透けて見えそうな気がする。今日はとても空気が青い。そういえば、まだ春なんだ。

 色々な思い出に蓋をして、座っていたベンチから立ち上がった。
 「もう全部、さようならだ」
 ワタシは潔くその高台に背を向けてバス停へと向かう。どこからかわからないけれど、たくさんの優しい声がワタシを呼び止める。
 『またここに来ようね』
 『どこに行ってしまうの』
 『お父さん帰って来ないね』
 『全部貴女のせいよ』
 思い出したくない色々がワタシの足を重たくさせる。
 毎日あの日のことを思い出して勝手に苦しんでいたワタシは、今日だけはどこかに閉まった優しい思い出で自分自身を勇気づけようとしている。
 多分、本当はこの世界が終わってしまうのが怖いんだ。
 口に出してしまうともうそこから動けないと思ったから絶対に言葉にはしない。けれど、それでも怖いものは怖い。どんな痛みを伴うのか、世界が終わったとしてもワタシだけなぜか生き残ってしまったら?あの人がもし、待ち合わせている海に来てくれなかったら。たくさんの心配や恐怖が渦巻く中でワタシは約束の海へ向かう。

 世界が終わるという誰にも抗えないシナリオ。今まで中途半端に生きて、全てを仕方ないと片付けてきた自分。ただ全部が怖かっただけだ。現実世界はあまりにも怖くて、本の世界に逃げていただけだ。でももう、本の世界に逃げて隠れてしまうことが出来ない。ワタシはこの世界の、現実の、本当のことをこの身体で受け止めるしかない。さっき乗車したバスは、時間通り何の問題もなく目的地の海へとワタシを運ぶ。
 海に着いてあの人に会ったらもう、後戻りは出来ない。ワタシの人生の最終章は、あの人と海と共に始まる。

 ああ何だかワタシ、主人公みたいだ。

Ⅲ 0:00
ボク

 浜辺にはボクら二人しかいなかった。

 二人とも海で待ち合わせてそこから数時間、会話をしていない。今さら何を話せばいいのかわからなくなってしまった。
 たまたま同じクラスでたまたま図書委員を務めてたまたま海に行くようになった二人はそこまで関係性を深められていた訳ではなかったようだ。そういえば、学校外のキミのことをボクはよく知らない。たまに「家に帰りたくない」なんて言ってはいたけど、その理由を聞くことはなくて。ただ一緒に海へと向かうだけだった。

 世界の終わりはもう数時間後に迫っている。
 【世界の終わりは0:00どうか、お気をつけて】
 こんな無責任なニュースの見出しはもう二度と見られないんだろう。世界の終わりなんてものが何度もあるとは思えないし、何度もあって欲しくない。これは少し特別な出来事であって欲しい。こんなつまらない世界で生きていたボクへの神様からのプレゼント、みたいな。世界の終わりについての解釈が都合良すぎる気もするが、もう何もかも終わるんだ、最後くらいいいだろう。

 ずっと海の先を見ているキミの隣で、書いてきた手紙を読むタイミングを失い続けている。
 「あのさ、手紙書いてきたんだけど、」
 と一言発する勇気がボクには無いみたいだ。世界の終わりが神様からのプレゼントだなんて考える余裕はあるくせに、キミに手紙を読む勇気が出てこない。
 色々思い出して整理して上手に書けたとは思うけど、それをボクが読んだり目の前で読まれたりするのが小っ恥ずかしい。この世界はつまらないなんて俯瞰していたボクは、どこに行ったのだろうか。

 手紙の内容は、あの日伝えられなかった想い。涙でぐしゃぐしゃになりながら伝えたものの、波音に掻き消されてしまった想い。あのときに上手に伝えられていたらこんなに困ることはなかったのに、ボクはどうしようもなく弱かった。
 今日ここでこの手紙を読まなければ、または読んでもらわなければ。ボクは一生分の後悔を残してこの世界から消し去られることになる。今日出来なくても明日すればいっか、とはならない。本当の本当に、今日が最期なんだ。
 キミに一声掛けるだけなのに、喉がギュッと締まる。不恰好な声でキミのことを呼びそうになる、危険だ。ここで無言で手紙を突き出すことも考える。けど、そんな乱暴はしたくないしキミもきっと気に入らないだろう。

 結局、ボクは臆病でダメなやつなんだと勝手に落胆した。

ワタシ

 世界が終わる最後の日、海にいること以外想像出来なかった。

 そして、ワタシの隣にはキミがいる。
 「これ以上のことはない」
 そう、確信している。浜辺にはワタシたち二人以外は誰もいない。それはそうだ、世界が終わる日に海に来るなんて寂しすぎるから。

 そんな寂しさを選択してワタシたちは海にやって来た訳だけど、ここに到着して一度も言葉を交わしていない。世界が終わることを目の前にして募る思いの一つや二つ、いやそれ以上の感情が溢れてどうしようもなくなるだろうなんて思っていたけれど、実際はそうでもなかったみたい。心は春の朝みたいに、穏やかに落ち着いている。
 キミの微かな体温が海風に乗って伝わってくる。そういえばワタシたちは特別何かを話したり、語り合ったり、告白し合ったりすることって無かったような気がしなくもない。同じ時間を過ごすことはよくあったけれど、その時間でお互いを解剖するようなことはしなかった。
 本当は、世界の終わりの日になぜワタシと居ることを選んでくれたのかを聞きたい。でも、今の空気では聞けそうにもないしその理由を聞いたところでもう世界は消滅するのだからその理由が今後何か意味を持つことも無いだろうしな、なんて捻くれたことを考えて海を見つめてばかりいる。

 そして、まっさらな時間はなんの隔たりもなく過ぎ去って、いつの間にか頭上は星で埋め尽くされていた。
 【世界の終わりは0:00どうか、お気をつけて】
 今さら気をつけるも何も、と突っ込みたくなる見出し。一体、何に気をつければいいのだろうか。

 世界が終わる前に、後悔しないように?
 世界が終わる前に、期待しないように?
 世界が終わる前に、絶望しないように?

 この「お気をつけて」というたった一言がワタシの頭から離れない。世界の終わりで命を落とさないように安全な場所にいてねってことなのかな。さっぱりわからない。もう世界が終わるというシナリオに誰も抗えないのだから、受け入れるしかないじゃないじゃない。でも、もしかしたらこの事実に抗おうとしている人が少なくとも存在しうるのかもしれない。今のワタシにはそれが無駄な足掻きに思える。

 ワタシはこの世界の終わりを特別な出来事だと思っている。好きな人とのデート、家族との時間、近所の公園で猫をめでた放課後。それよりも少し特別なことを、これから経験できるんだと少しワクワクしている。そしてワタシは、この機会にキミに手紙を書いてみたりした。らしくない、わかってる。でも、もう会えないならキミの顔を一生見なくて済むのなら最後くらいお礼を伝えておこうと思ったのだ。今まで言葉に出来ずにいた散らばった想いを、最期にどうかキミに届けたい。
 「手紙書いてきたんだけど、読んでくれる?」
 そのたった一言が口に出来ない。いつもデタラメなことを言うみたいに、ふわりと浮かぶ雲のように、軽く爽やかに、言ってみせたいのに。その一言を口にすると身体全体からとめどなく涙が溢れてくるような気がして、ワタシはずっと膝を抱えて座っている。もし、少しでも気を緩めて足を伸ばしたりなんかしてしまえばまた、キミを困らせてしまうことになる。

 この手紙を読まなくても、キミに全てを見透かされているだろうか。
 キミがいつの日かワタシに言った『感情が声に出やすいよね』という言葉を思い出す。なら、それなら、声を出さなければ誰にも何もバレることはない。そう無意識に思ってさっきからずっと話せないでいるのかもしれない。でも、またいつの日かキミが言ってくれた言葉を思い出す。
 『キミの声、ボクは気に入ってる』

 そうだ、
 「ねぇ、ワタシの声、聞いてくれる?」


Ⅳ ハルへ

 ハルへ
 ワタシはいつもハルに、気持ちを上手に伝えられていなかった。話そう、伝えよう、聞いてもらおうと思う度に少し心が震えてじぶんの口から出ていく全てがいつも泡になって途中で消えてしまってハルに届いてないんじゃないかって不安だった。でもハルは、ワタシの言葉を絶対取り零すことなんてしなかったしいつも全てを受け止めて、受け入れてくれた。ハルはワタシの良き理解者だったと心から思うよ。

 なんでワタシがこんな手紙を書いているかというと、言わなくてもハルには分かっちゃうよね。そう、単純に、世界が終わるから。どうせこの手紙がハルに読まれようが読まれまいがもうワタシたちに明日なんてないから。こんな機会は滅多にないから、ワタシはハルに手紙を書いたよ。

 ハルと出会った日のこと、初めて一緒に海に行った日のこと、初めてハルの流す涙を見た日のこと。世界が終わるって知らされてから、今までハルと過ごした時間のことを少しずつ思い出して一つずつさようならをしたの。本当はね、さようならなんてしたくなかったよ。けれど、思い出になんてしたくなかったから。それら全てに今日と同じ新鮮さを保ち続けたかったから、忘れてほしくなんてなかったから、さようならをした。ハルとの思い出が思っていたよりも多くて、たくさんさようならをして心が泣いていたの。もうハルと同じ時間を過ごすこともなければ、話すこともなくなる。思い出を得ることが出来なくなる。過去を慈しむ時間もなくなる。だから、ワタシの心は泣いたんだと思う。

 ハルがあの日、ワタシの目の前で泣いたことを覚えているかな。本当に小さい子みたいにしゃくりを上げて泣いてワタシがハルに『大丈夫だから』と言った日。あの日、本当はこの世界に大丈夫なんて存在しないと思いながらハルを慰めたんだよ。目の前で涙に溺れていくハルを見てワタシはその場に居ても立っても居られなかった。いっそこのままどこか遠くへ行ってしまった方が心が落ち着くんじゃないかとまで考えたの。ワタシの持っている全てじゃハルの涙を止めることは出来ないと思って、なんとかハルに『大丈夫』だって嘘をついた。その場でワタシはもう嘘をつく以外に他がなかったんだ。
 そしたら、そんなワタシの気持ちを見透かしたように『大丈夫ってなにが』ってハルは言ったよね。ああやっぱり、ハルには嘘がつけないんだなって一瞬にして安心したのを覚えてる。そして、ハルもこの世界に大丈夫なんてものが存在しないって知ってるんだって嬉しくなった。なにが大丈夫かなんてわからないけれど、あの時ワタシが想っていた素直な気持ちを冬の朝くらいの純度でハルに伝えた。テストだったら満点の回答じゃなかったと思う。でもハルなら満点をくれるんじゃないかと期待して、ワタシは高ぶる気持ちを抑えられずにハルに考えをぶつけたんだよね。
 ハルはすごく辛そうにしかめっ面で、もう涙も出ないと言いたげな顔で『自分のことを大丈夫と言えるほど強くない』って言ったよね。もう、それが強過ぎるんだよ。そうやって、自分自身の弱さを知ってその上で生きてきたことが素晴らしく強いんだよ。本当の強さは、誰よりも自分の弱さを理解している人間が持っている。ワタシはいつもそう思っているんだ。その強さをハルは自覚していないから、あんなにも恥ずかしそうに言いたくない言葉を言いたくない言葉のまま口から零していったんだね。
 ワタシはハルのそんなところが大好きだよ。

 ずっと言えなかった。本当は言いたかった。
 ハルが褒めてくれるこの声で直接ハルに伝えたかった。「大好き」って音に出して言ってみたかった。でもワタシはそんな弱さを持っていなかったね。受け入れてもらえないかもしれないから、嫌われるかもしれないから。自分が傷つかない方法を選んで強がってた。大好きって一言伝えれば理由なんてなくてもハルは受け止めてくれたはずなのにね。
 何でこんなにも素直に生きられなかったんだろう。もっと素直に生きていたら、お母さんもお父さんも家にいてくれたかな。また三人でこの街の夜景でも見られたのかな。

 今日、世界が終わる。もう二度と、ハルには会えない。短かったな、ハルと過ごした時間。ワタシ、世界が終わることちょっぴり嬉しいんだ。ワタシが頑張らなくても仕方なくこの世界が終わってくれることが嬉しい。もう嫌なことも苦しいことも考えなくて済むならそれがよかった。でも、でも。ハルともう一緒に居られないなんて考えたくないよ。流れで始めた図書委員も、放課後に向かう海も、何もかもワタシは心地良かった。ハルの隣に居られることが全部心地良かった。この高校生活で誰よりもハルの隣に居られた自信がある。世界が終わる日にもハルの隣に居られることは本当にしあわせ。
 世界が終わることは仕方のないことだけど、今さらビビってる。痛くないかな?この世界に取り残されたりしないかな?まあでも、ハルとなら大丈夫かな。いつも陽だまりみたいにあったかくて、物語の主人公みたいな勇気を抱えているハルとなら何も怖くないかな。でもハル、ワタシはやっぱり怖いよ。もう一人になんてなりたくないよ。

 とても長い手紙を書いてしまって、ごめんね。
 やっぱりハルには上手に気持ちが伝えられなくて遠回りしてまた戻ってきて遠回りしてって伝えちゃう。悪気はないの。
 最後に、あの日涙に溺れたハルが伝えてくれた一言。波音に掻き消されてなんかなかったよ。ワタシは驚いて少し間の抜けた顔をしてしまっただけ。伝わっていないって思ったでしょ?ちゃんと、ちゃんと聞こえてたんだよ。だから、ワタシはハルと繋いでいた手の甲に唇で触れたの。わかったって、絶対にって気持ちで触れたの。その想いに蓋をしたの、どこにもいってしまわないように。

 だから大丈夫、安心して。
 この世界が終わっても、もう二度と出会うことがなくても、この世界に大丈夫が存在しなくても、ワタシたちは生きていける。死んだって、生きていける。
 ハルがワタシの名前を聞いたとき『ボクはスズランの花が好きなんだ。白くて小さくて、すごく純粋だから。そういうところ、スズに似ているかもね。』って言ってくれたこと、ずっと忘れないから。

 大好きだよ、ハル。出会えて良かった。
 じゃあ、またね。

 スズより。


エピローグ

 「ねぇ、ワタシの声聞いてくれる?」

 ずっと手紙を読もうか読まないか迷って、勝手に落胆していたボクの隣でやっと声が聞こえた。
 不安そうな顔をしてボクの顔を覗き込む。何も反応することが出来なくて、キミは突然ボクに向かって真正面に座った。
 「なに、どうしたの、急に、」
 「最後まで聞いて欲しい、ワタシの本当を聞いて欲しい」
 そう言って、キミは鞄から手紙を取り出した。その鞄の中にはシャボン玉や望遠鏡、少しばかりのおやつが入っていたのが見えた。キミは今日を遠足の日か何かと勘違いしているのだろうか。
 「真剣に最後まで聞いてね、最後まで」
 「うん、もちろんだよ」

 「ハルへ」
 キミの小さい子どもを寝かしつけるようなトーンはいつもと変わらない。とても落ち着くし、そのまま本当に眠ってしまいそうになる。キミの口から色んな言葉が聞こえてくる。心地の良い声と同時に、世界が終わりへと近づいていく。
 キミの声に包まれながら、真夜中の空が明るくなっていく。無数の星たちがボクらの頭上に現れる。そして、空にとめどなく星が流れる。その星がこの世界を目掛けて堕ちてくる。何かが始まるんじゃないかと錯覚する程の明るさを連れて堕ちてくる。もう逃げられない。

 そんな中でも淡々と手紙を読み進めるキミは、その星の光で更に輝いて見えた。気のせいだろうか、瞳が星のように輝いている。さっきよりも声が震えている。そうだった、キミはちょっぴり怖がりだったね。
 世界の終わりはもっと呆気ないものだと思っていた。こんなにも時間がゆっくり過ぎるなんて思ってもみなかった。いつの間にかボクらの距離はもっと縮まって、手を繋いでいた。「ごめん、もうちょっとだから」と言いながら手紙を読むキミは世界の終わりに怯えていた。
 こんな時、大丈夫だって抱き締められるボクでいたかった。でももうそんなんこと、キミは期待なんてしていないだろうけど。

 キミからの手紙を聞きながら、ボクの手紙のことを思い出す。世界が終わる前に書いた手紙。もう二度と書けない手紙。でもまさか、キミも手紙を書いてるなんて思ってもみなかった。見た目によらず、随分乙女なことをするんだなと感心した。それともキミはボクがこの機会に乗っ取って手紙を書くと気づいていたのかもしれない。そうだとしたら、それはとてもキミらしい。
 手紙の内容はとてもボクと似ていた。出会った頃の話や普段のことに触れて、世界が終わることに対してどう思ったのかを述べる。ボクらはやっぱり少し似ている。キミから溢れてくる言葉に一つ一つ安心する。
 手紙を読んでいるキミはまるで、寝る前に絵本を淡々と読み聞かせてくれている母のようだった。そして、これからのシナリオを全て知っている主人公みたいだった。もっと、もっとキミの声を聞かせて欲しい。その声で、この物語を終わらせて欲しいと思った。
 手紙を聞きながら思い返すと本当にキミと過ごしてきた時間は儚かった。高校でろくに友達も作れず一匹狼みたいな態度をとって生きていたボクに対して、キミは本当に光のような存在だったのかもしれない。お互いそこまで知り合っている訳では無いし噛み合わないこともあったけれど。そばに居た時間は無駄ではなくてちゃんとお互いのことを知ろうとしていたことが伺える。不器用なボクらは不器用なりに歩幅を揃えて歩いてきたみたいだ。
 キミに先に手紙を読まれてしまうと、もうボクは気持ち的にも、時間的にもこの手紙を読むことはできないなと悟った。残された時間はもうない。それに、なぜだかもう後悔なんてものはボクの心から消え去っていた。世界は順調に、終わりに向かって進んでいる。
 世界の終わりに予行練習はない。なのにここまでスムーズに星は流れ、目の前で色んなものが破滅していく。何度も何度もリハーサルを繰り返し、ミスを許さず稽古してきた劇を見せられている気分になる。どこか遠くで短い悲鳴が上がる。ボクらもそんな誰にも覚えていてもらえない悲鳴を上げて、この世界から去っていくのだろうか。

 段々、世界が遠のいていく。ボクの知っている世界と離れていく。キミの声は星が流れてくる勢いに押されて段々聞こえづらくなってきた。そして、ボクらの手を繋ぐチカラが強くなっていく。
 ああ、あの日の話をしている。ボクがキミの前で泣きじゃくったあの日の話をしている。キミは覚えていてくれたんだね。

 「ちゃんと、聞こえてたんだよ」
 もうボクはその言葉だけで満たされていた。
 「わかったって、絶対にって気持ちで触れたの」
 もうこの世界は終わる、真っ白な光に包まれていく。
 「その想いに蓋をしたの、どこにもいってしまわないように。」
 繋いだ手が、離したくない手が呆気なく解けて、キミの温もりが消えかかっていく。

 もう最期だった、これが世界の終わり。
 たくさんの星が空から堕ちてきて、隕石が衝突を迎える。風波に乗って薫るボクらの運命は、もう終わりに差し掛かっている。

 「大好きだよ、ハル。出会えて良かった。」
 その言葉が聞こえなくなる瞬間、ボクは最後の勇気でスズを抱き締める。力強く、この世界に取り残されてしまわないように。
 そして今度は、耳元で囁く。いや、叫ぶ。もう一度聞いて欲しいから、もう二度と聞いて貰えないから。

 『どうか、ボクを忘れないで』

 ああ、世界なんて終わって欲しくなかった。なんなら、この世界でスズとふたりぼっちになってしまった方が良かった。でも、もうそんな想いは届かない。

 スズを抱き締めて最期に見上げた空には、無数の星が流れている。その星の中で一段と輝く青白いスピカ、どうかこの星だけは。どうか、これからのボクらを見守っていて欲しい。ずっと変わらず、春の夜空で輝いていて欲しいと想う。
 切なる願いと共にやっぱりボクらはどうしようもなく、世界の終わりに呑み込まれていく。

END

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