陶器ことはじめ~古墳時代の窯跡より~
私たちが普段使う陶器。生活にかかせない器たち。
例えば
美濃焼 萩焼 有田焼 益子焼 清水焼 備前焼など
たくさんあるが、これらのはじまりの形はどうだったのだろう?
そして、それはいつから、そしてどこから始まったのだろう?
今回はその問いに答えてみる。
5世紀半ばごろ、朝鮮半島から技術が輸入された「須恵器」。
堺市周辺に点在していた「陶邑窯跡群」(すえむらかまあとぐん)からそれは始まった。
さて、現在の陶邑窯跡群はどのようになっているのだろうか。
現在は開発が進み、須恵器が焼かれた丘陵地帯は団地が立ち並ぶニュータウンへと変化を遂げた。
それでは、古墳時代の痕跡をとどめる場所はもうないのだろうか。
・・・・この時代の窯は細長い登り窯が使用されている。
実はこの登り窯が保存されている場所がある。
場所は泉北高速鉄道の泉が丘駅を降りて徒歩約10分。
大蓮(おおはす)公園の中に窯跡が保存されている。古墳時代、ここが須恵器生産の拠点だったという面影を残している。
大蓮公園内を散策すると陶邑に関連する建物がある。
☆まとめ
今、私たちが普通に使っている陶器。
その陶器の祖先が日本に入ってきたときに、仁徳天皇陵古墳をはじめとする巨大古墳が大阪湾沿岸に築造されている。
須恵器のはじまりと巨大古墳の築造は、実は年代が同じだ。
須恵器という新しい陶質土器を古代日本に根付かせたのは、巨大古墳に眠る大王か大王に関連する人々だった。大王とは5世紀に活躍した「倭の五王」である。
この「倭の五王」が天皇家の祖になると考えられる。
5世紀はダイナミックに人やモノが動いた時代でもあった。
モノや人を運ぶ馬もこの時代に入ってきたと考えられる。なぜなら馬具の出土はこの時代の特徴だ。
陶器から須恵器、そして巨大古墳を連想してみた。
・・・・そう考えると、歴史は面白いだろう。