美しくも物悲しい秋と妻の死「柿本人麻呂」
秋の深まりを感じられる。
私は、紅葉の進みつつある秋の道を歩くのが大好きだ。
こんな葉っぱを見つけた。
さて、『万葉集』を開くと、秋を詠んだ歌、とりわけ紅葉・黄葉がたくさん出てくる。
その中で、目に止まったのが次の柿本人麻呂の歌。
持統天皇の御用歌人として活躍した彼が愛する妻を亡くした状況がわかる。
✳︎衾道(ふすまじ)は地名で、奈良県天理市山中町あたり。
引手(ひきて)の山とは固有名詞で「羽易(はがい)の山」とも呼ばれた。
(中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』の解説より)
この状況はいったいどういう状況なのか、
詳しく説明してくれている歌がある。
『万葉集』の、これらの歌の前後には、妻を亡くしたばかりの柿本人麻呂の歌が配置されている。ここでは取り上げないが、読むだけでその哀切な感情が伝わってくる。
・・・・おそらく、人麻呂は山道のどこかに妻を葬っただろう。
その妻の肉体は葬られたが、目には見えないけれど、妻の魂はまだ彷徨っているに違いない。その妻の魂に向かって人麻呂は呼びかけている。
208番歌「秋山の 黄葉(もみじ)を茂み 迷(まど)ひぬる 妹」という表現に注目したい。
「迷(まど)ひぬる 妹」つまり、道に迷っているあなた、とは肉体がない妻を表した言葉だろう。
まだ、亡くなったばかりで、あの世に行かない妻の姿は見えない。
見えないけれど、この山道のどこかにいるだろう。
共に、この黄色い紅葉を見ているだろう妻を思い浮かべて、
哀切な思いを美しい歌に昇華させた人麻呂。
そのときの感情が歌を通して伝わってくる。
そして何世紀も後に生きている人の心を動かす。
そんなパワーが『万葉集』にはある。