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むかしがたり『白い象の野原』

 私は子供のころに、この物語を祖父から聞いた。祖父もまた、この話を若いころにインドの山奥の小さな村で聞いたのだという。
 祖父は冒険好きで、若いころはかなりの野心家でもあったので、戦争のころ――第二次世界大戦のことだが――中国奥地から遠くインドにまで旅をして、そこで大きな事業でも起こそうと考えていたらしい。
 祖父は、インドの東、大きな川の上流近く、中国や東南アジアの国々と国境を接しているようなあたり――そこは、今でもインドや中国、バングラディシュ、ビルマ(ミャンマー)、少し北に向かえばブータンやチベットなど、国境が入り組んでいる。国だけでなく、豊かな高地が少なくない一方で、大河や湿地、荒地、あるいは深い森、険しい山塊とさまざまな顔をもった土地がこの一帯に集まっていて、まるで神様が大地のさまざまな標本(サンプル)を集めてとっておいたというような地域である――祖父はそのあたりの小さな村に立ち寄ったときに、村で出会った老人から思い出話として、この不思議な物語を聞かされたという。
 その老人は、もうずいぶんな高齢だったが、若いころからインドやチベットをめぐって商売を行い、かなりの成功をおさめたのだそうだ。年をとって生まれ故郷の村に落ち着いてからは、たくわえた財産を村のために惜しげもなく使い、そのおかげで、村では長老の一人として人々の尊敬を受けていた。

 老人がまだ若く、背中に品物を背負ってひとりであちこちを行商するような小さな商売をしていたころ、インドの東の果てあたりの森の中で道に迷ったことがあった。仲間もいないし、鼻の利くロバや馬を連れているでもなし、どうしたものかと途方にくれているとき、その深い森の中でふたりの農夫に出会った。
 こんな森に農夫とは不思議なこともあるものだと思い、彼は少々あやしんだのだが、見たところ人のよさそうなふうだったし、物腰も上品であったので「道に迷われたのであれば、今夜はわたくしどもの村にお泊まりなさい」と言われ、森の中で一夜を過ごすよりはと、導かれるままに彼らの村に行った。ふたりの農夫は、彼を森の奥のほうに導いた。どこをどう歩いたやら、深い森だったので全くわからなかったが、ほどなく一行は村にたどり着いた。
 村の入り口に立って、彼は驚いた。そこは、とても広く豊かな穀倉地帯だったのだ。あんな深い森の奥深くに、こんなに豊かで広大な農地と、こんなに大きな村があったとは思わなかったのだ。その村は、彼がそれまでに知っているどんな村よりも豊かな農村のように思えた。
 村人は、とても親切に彼をもてなしてくれた。そして、夕食後、村長(むらおさ)の家に招待され、そこで彼は村長からその村のいわれを聞かされたという。

    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆

 むかし、むかしのことだ。
 ここよりずっと西のほうに、あなたもご存知であろう、あの荒地の、さらに西の川辺に小さな村があった。
 けっして豊かではなかったが、貧しくても村人はまじめに働き、助け合って暮らしていた。貧しいといっても、それが昔からの暮らしぶりであったし、誰かがとりわけ豊かだとか、誰かが貧しいとかいうことでもなく、他の暮らしがあるというようなことを誰も思いもせず、ただ先祖から伝えられた暮らしかたを引き継いで、そんな生き方を子供たちに伝えて生きてきた。だから、誰も自分たちを貧しいとか、豊かだとか思うことをしなかった。
 もちろん、飢饉にみまわれたり、川が氾濫したりすることもあったが、そんな苦しいときでも、次の年か、あるいはそのまた次の年にはよい気候に恵まれてたくさんの作物が実るに違いない。そんなふうに考えていたし、じっさい、そのようにして何百年も、いいや何千年もそうやって生きてきたのだ。

 遠くで戦(いくさ)が始まったといううわさが聞こえてきた。
 なに? いや、戦の理由や、そもそもどこの誰とどこの何者が戦を始めたのかもよくは知らなかった。ただ、遠くで戦が始まったらしいと聞いたのだ。そして、その戦が、とうとう村にもやってきた。
 戦は、村を焼き、家畜を奪い、畑を踏み荒らして去っていった。村人も幾人か殺された。
 村人は、初めは飢饉や災害と同じように、戦が去ればまたよい季節がめぐってくる、そうしたら、また村を建て直せばよいと、そんなふうに考えた。
 しかし、戦というヤツは、一度村を通り道にすえてしまうと、またやってくるものらしい。西からやってきた戦が東に去ると、こんどは東から戦がやってきて村を焼く。畑を踏み荒らし、村人を殺し、西へ去る。その繰り返しだ。
 そうやって、戦がいくども村を焼いた。村は立ち直る期間(とき)も、力も失ってしまった。村人は疲れ果ててしまった。
 ――もうだめだ。この村はすっかり呪われてしまったようなものだ。ここは戦の通り道に定(き)まってしまった。ここでは、もう暮らしてゆけぬ。

 気がつくと、村人の数もすっかり減ってしまっていた。残った村人たちは話し合い、とうとう、この先祖から受け継いできた村を、たくさんの飢饉や災害を乗り越えて耕し続けてきた農地を捨てることにした。そして、どこかに戦の来ない平穏な場所を探して、そこに貧しくてもいい、小さな村を建てようと決めた。
 旅が始まった。あてのない旅が。

 つらい旅であった。じゅうぶんな食料を持って出たわけでもないから。それに、村人は若く元気なものだけではない。年寄りもいれば子供もいる。病で弱っているものだっている。でも、村で暮らしていたときと同じように、みな助け合って、励まし合って旅を続けた。
 いくにち旅を続けたであろうか。そこは果てのない荒地、沙漠だった。
 とうとう食料もつき、水もなくなった。そして、わるいことに嵐がおそってきた。昼間なのに、そして、あたりは金色(こんじき)の砂が吹き荒れているのに、太陽は砂嵐に隠されて、あたりは暗い。村人たちは身体を寄せ合い、嵐をしのいだ。
 しかし、もはや食べるものはない。水もない。嵐をしのぎ、この嵐が去ったとしても、いったいどうすればよいのか。生きてゆくあてはあるのか。
 村人たちは、嵐の中で待つしかなかった。嵐が過ぎ去るのをではない。このまま静かな死が訪れるのを待つのだ。

 誰かが、金色の闇のはるかかなたに何かを見つけた。
 何か白いものが、こちらに近づいてくる。
 ――あれは何だろう。
 やがて、その白いものが近づくにつれ、その形がはっきりとするにつれ、村人たちは恐れおののいた。
 金色の闇をやぶり、かれらのもとに近づいてくるもの、それは象だった。
 それも、ふつうの象よりもふたまわりは大きく、真っ白な象。
 ――化け物だ。ああ、わたしたちはなんと不幸せなのだろう。こんなところで、あのような化け物に踏み殺されるのか。静かに死んでゆくことさえ許されないのか。

 その白い化け物は、身体を寄せ合って恐れおののいていた村人たちのすぐそばまでやってきた。そして……
 ――あなたたちはどこから来たのですか? どこへ行こうとしているのですか? こんなところで何をしているのです?
 静かな、それでいて力強い声が、村人の頭上に響いた。
 ――人の言葉を話すのか? 化け物か、悪魔か、いや、もしかしたら神様かもしれない。
 長老は恐れつつも、進み出て、身を投げ出してうったえた。
 ――わたしたちは、ずっと西の、大きな川のほとりにあった小さな村から参りました。戦がいくども村を襲いました。村は焼かれ、畑は荒らされ、わたしたちは村を捨て、どこかに戦の来ない静かな土地をさがして、そこに……貧しくてもいい、小さな村を建てて住もうと旅に出ました。しかし、食べ物もなくなり、水もなくなり、この果てない沙漠で嵐にあい、あとはこのまま死んでゆくしかないと身体を寄せ合っております。白い象よ。慈悲深い神の化身よ。どうか、わたしたちを踏み殺さないでください。どうか、わたしたちを食い殺さないでください。どうか、このまま静かに、おだやかに死なせてください。
 白い象は、しばらく村人たちを見おろしていたが、やがて静かに語り始めた。
 ――さぞ難儀なことであったでしょう。でも心配することはありません。これから、わたしが言うことをよくお聞きなさい……

 象は語り続ける。

 ――この嵐はもうじき止みます。嵐が止んだら、東へ行きなさい。これから、わたしも東へ向かいますから、私が去ったほうへ行けばよいのです。日が暮れる前に森にたどり着くはずです。深い森ですが、おそれずに森に入りなさい。そこには水もありますから、水をとって、奥へ進むのです。森の中に山べりをたどる小さな道があります。崖沿いの狭い上り坂ですが、その道を注意深くのぼりなさい。やがて、断崖の下、深い谷の底に象が倒れているのが見えます。その象は、気の毒に誤って足を滑らせ、谷底に落ちて死んでしまったのです。崖には小さな路がついていますから、そこを降りなさい。そして、その象の肉を食べ、残りを分けて持ち、山道をたどって旅を続けなさい。象の肉が尽きるころ、豊かな土地にたどりつくはずです。そこは、深い森に囲まれた草原です。川も流れています。きっと、よい村を建てることができるでしょう。

 こう語り終えると、その白い象は去った。
 村人たちは、夢でも見たような気持ちになった。もしかしたら、本当に夢だったのかもしれない。
 しかし、ほどなくして嵐は止んだ。
 ――あの象が言ったとおりになった。
 幾人かが立ち上がり、象が去ったほうへ行こうとしたが、それをとどめる者もいた。
 ――あれは魔物かもしれないではないか。信じるのか?
 ――しかし、ここにとどまっても死を待つだけだ。信じよう。
 村人たちは、不安をぬぐえないまま、象に教えられたとおりに、荒地を歩き続けた。そして、日暮れの前に深い森にたどりついた。森に少し入ると小さな清水がわいている。何もかも、あの白い象が言ったとおりであった。
 村人たちは、もう象の言ったことを疑わなかった。そして、水を飲み、希望を得た村人たちは森の奥へと分け入った。やがて、小さな渓流のわきに小さな山道を見つけ、そこを登り続けると断崖があり、さらにゆくと深い谷の底の、木々が生い茂る緑の中に、何か白いものが沈んでいるのを見つけた。
 ――象だ。
 ――何もかも、あの象の言ったとおりではないか。
 ――やはり、あの白い象は神様のお使いだったのだ。
 村人たちは、よろこび勇んで、われさきにと崖を下った。そして……最初に象の死骸にたどりついた者たちが叫び声をあげた。続いて来た者たちも、象のそばに来ると叫び、そして泣き始めた。

 ――これは、なんということだ。
 ――なぜだ。なぜこんなことを。
 そう。谷底に横たわっていた象は、まぎれもない、あの白い象だったのだ。あの荒地で砂嵐にみまわれ、絶望し、ただ死を待ち望んでいたわたしたちをここに導いた白い象。象は、わたしたちをあわれみ、わたしたちを救うために自ら谷に身を投げたのだ。

 ――あなたは、わたしたちに、あなたの身体を食べよとおっしゃるのですか?
 ――こんなにも慈悲深く、気高いあなたの身体を切り刻み、食べよとおっしゃるのですか? そんなことは、わたしたちにはできない。いや、そんなことをしてはならない。
 村人たちは、象のなきがらのまわりに座り込み、何もすることができなかった。ただ泣き、手を合わせて祈るほかに、いったい何ができるというのだろう。
 日が暮れて、夜になった。そして、絶壁に切り取られた夜空から、無数の星ぼしと銀色の満月が彼らを照らした。象の浄(きよ)い身体も銀色に輝いた。
 誰かが言った。

 ――食べよう。
 ――そんな恩知らずなことができるものか。こんなことなら、いっそあの沙漠で……
 ――たしかに、あの沙漠で、わたしたちが死んでしまっていれば、この象は死ぬことはなかった。しかし、この白い象に導かれてわたしたちはここまで来た。象は死んでしまった。ここでわたしたちも死んでしまったら、この象はなんのために身を投げたことになるのだ。食べよう。そして生きよう。生きて、象が導いてくれた豊かな土地にたどりついて、村を建てよう。

 村人たちは泣きながら、手を合わせ祈りながら、象の身体を切り分け、食べた。そして、残った肉をあまさず持って、少しずつ、すこしずつ大切に食べながら旅を続けた。数日の後、象の肉がすっかりなくなるころ、突然、森が終わり、広い草原が現れた。

 いちめん緑におおわれた豊かな草原。かなたに太陽の光を受けてきらきら輝いているのは川だ。そして、そのはるか向こうにうっすらと緑の帯が見える。深い森にかこまれた広大な草原。
 村人たちは、その草原に村を建て、耕し、やがて豊かな農地を拓いた。

 そう、すべては、あの白い象が言ったとおりになったのだ。

    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆

 翌朝、村人たちは彼を森の出口まで導いてくれたそうだ。いつか、ふたたび村を訪れて、この恩を返そうと思い、彼はそう約して親切な村人たちに別れを告げた。
 村長(むらおさ)から聞かされた村の由来にまつわる物語に、彼はいたく心をうごかされたという。

 ――商売というものも、自分が儲けるためにするものではあるまい。人の役に立ち、人を幸せにするために働き、その証(あかし)としていくばくかの儲けがあればよい。思えば、儲けというものもまた、誰かが自分のために役立ってくれたということではないか。誰かの働きが自分の利となり、自分の働きが誰かの利となる。利がどこかにとどまってしまったら、それこそ無駄というものだ。儲けが死んでしまうということだ。考えてみればあたりまえのことだが……あの村の先祖たちの苦難や、あの白い象の慈悲には及ばないかもしれないが、商いにも道のようなものはあろう。

 そんな気持ちが幸いしたのかどうかはわからないが、彼はおおいに働き、おおいに得ておおいに与えた。引退後、故郷に腰をすえてからは、財を惜しげもなく人々のために使った。死ぬ前に残った財を誰かの役に立ててすっかり帳尻を合わせるのだと、彼は祖父に笑いながら語ったそうだ。

 そうそう、故郷に戻る前に、彼は約束どおり恩返しをするために、記憶を頼りにあの村を探したが、どうしても見つけることができなかったそうだ。ただ、まれに、若いころの彼と同じような旅の商人が東の果ての深い森の中で道に迷い、どことも知れない豊かな村に導かれて不思議な物語を聞かされるのだという噂は、今でも耳にするという。しかし、あの村がどこにあるのか、知る者は誰もいない。


 彼は、懐かしそうに目を細め、こんな思い出を語りながら話を終えたそうだ。

 ――その村の中央に広場があって、そこに白い象を記念する大理石の小さな塔が建てられている。そこには、毎日村人たちが花をささげ、季節ごとの色とりどりの花が絶えることはない。広場を行き交う人々は、塔の前を通るときにはかならず祈り、感謝する。村人たちは、その豊かで美しい土地をこう呼んでいる。

  「白い象の野原」と。


おしまい


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