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【短篇】味

忘れもしない出来事です。


7月も下旬に差し掛かろうとしていた日のことでした。
その日は残業に次ぐ残業で、なんとか終電に駆け込んで帰りました。
家に着いた頃には、もう頭も回らないほど疲れた状態で、ネクタイもしたままベッドに倒れるように眠ってしまいました。


明け方頃でしょうか。
ふ、と目が覚めてしまいました。
僕はいつの間にか布団をしっかり被って、それも仰向けの綺麗な姿勢で天井を見上げていました。

時計を見ようと手を伸ばそうとした瞬間、異変に気付きました。

手が動かない。

それどころか、拘束されたみたいに、全身がまったく動かせない。
金縛りです。

僕は意外と冷静に、あぁ、動けないな~、疲れすぎたな~、とか思ってました。それどころか、寝不足で明日の仕事に響かないか、なんて心配もしていたくらいです。


どれくらい経ったでしょうか。

だんだん暗闇に目が慣れてきた頃、磯臭いというか、生臭い臭いに気付きました。

僕の住んでいるアパートは海どころか川からも遠いので、普段そういう臭いを感じたことはありません。
一瞬、キッチンの生ゴミが臭っているのかと焦りましたが、燃えるゴミはその日の朝に出したばかりだし、その日は夕食もとらずに眠ってしまったので、生ゴミなんて一切出ていないんですよね。

おかしいな、洗濯物の生乾き臭かな、とか思っていたその時です。


唇に、妙な感触を覚えました。


それは柔らかくブツブツしていて、そしてぬらぬらと濡れていました。

強烈な臭いが鼻を抜けて、僕はえずきそうになりました。

それは生臭い臭いを漂わせながら、僕の唇を搔き分け、口内にその身体をねじ込もうとしてきました。

怖いとか、どうしようとか考える余地もありませんでした。
僕は鼻息を荒げながら、パニック状態でなんとか抵抗しようとしました。
気絶しそうになりながらも、それを口内に入れまいと歯を食いしばろうとしました。

しかし、それの柔らかい身体を拒むことはできませんでした。

それは舌の上に転がり込むと、僕の口はゆっくりとそれを咀嚼し始めました。口内でそれが少しずつほぐれていき、僕の口内を満たしていきました。


発狂しそうでした。何かも分からないモノが口内に侵入してくるどころか、それを嚙み砕いてしまうなんて。

僕が意識を失いそうになる、その時です。


ふうわりと、醤油の味を感じました。


ええ。醬油です。

その感覚で正気に戻った僕は、困惑しながらも、舌に伝わる味や感触をよく感じ取ってみることにしました。

まず感じるのは、やはり醤油の透き通るような感覚。
僕の実家でよく使っていた、さしみ醬油の懐かしい味がしました。

続いて、ぬらぬらとしたモノの脂の味を感じました。
それは生臭い香りを発しながらも、その脂からは魚介の旨味がしっかりと感じられました。

生臭さが口内を満たそうとしたその時、ツンとしたワサビの良い香りが鼻を抜けました。それも市販のペースト状のものでは決して感じられない、青臭いながらも上品な香り。

そしてそれらを包み、まとめ上げる上質なしゃりの食感。
しゃりにはおそらく出汁が混ぜ込まれていて、かすかに昆布の香りすら感じられました。


つまりは、上等な寿司を食べているような感覚でした。

僕は恐怖とか困惑とかよりも、おいしい寿司を食べているという幸福感に満ちていきました。飲み込むのが惜しいくらいでした。

しかし、すべての食べ物がそうであるように、この寿司にも終わりの時がやってきました。

僕の口は、それをゆっくりと飲み込んでしまいました。

喉から食道へ、食道から胃へ……

僕の身体がそれを受け入れていくまでの過程を、僕はただ感じることしかできませんでした。



不意に、アラームの音がしました。
ポケットの中です。
僕は反射的にスマホを取り出してアラームを止めると、時刻を確認しました。6時45分。いつもの起床時間。

身体を起こすと、自分がうつ伏せで、布団もかけずに眠っていたことに気が付きました。

やはり夢だったのか。

安心感と、不思議な喪失感に包まれながら、僕はシャワーを浴びに風呂場へ向かいました。


ジャケットを脱ぐと、ワイシャツの襟元が濡れていることに気付きました。
まあ熱帯夜なので汗をかいているのは当然なのですが、どうもおかしい。

ワイシャツを脱ぎ、襟元を見てみると、茶色い染みが付いていました。

そこからは、上質なワサビの香りが漂っていました……。

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