『終りに見た街』の街は果たして未来なのか
山田太一の原作を宮藤官九郎が脚色するというだけで期待値が上がる。
実は昭和と平成に2度もドラマになっていたのに全く見ていない。原作本も読んでいない。なので白紙の状態で見たのである。その為まともに食らってしまった、この作品のメッセージを。
主演が大泉洋って何だか軽い配役ではないかと思わないでもなかったが、逆にそれでこそだったのね、と思った。
そう、導入部では軽いSFのノリのように思わせながら、だんだんそれは違うのだ、とこちらが気づく仕組み。
このような物語でありがちなのは、主人公が投げ出された時代の中で右往左往する話だ。クドカンと洋ちゃんのタッグならそれでコメディタッチながら深味も感じさせるドラマになったかもしれない。
だが、そもそも山田太一という基盤がある。そんなことにはならないはずだったのだ。
以前の作品との細かい違いはわからないが、令和版ではスマホの存在と資料をデータで送るかどうかの話があったりする。そう、物語の中の現在は本物の現在、2024年でなければ意味がないのだ。
そうして私たちは主人公と同じ旅をするのだ。
エンターテイメント性だけに徹するなら、終戦間近の時代の短い時間の中で闘う話になるかもしれない。しかしこれは先ず昭和19年に飛ぶ。そこから何とか生き延びる術を身に着けながらの描写が続く。
そうしているうちに終盤、子供たちに意識の変革が生まれる。
見てて、まさか彼らがそういった軍国主義に染まるような考えになるとは思わなかった。そこが一番怖いのだと指摘する人も多い。確かに。
つまり、この令和の時代からジワジワと同じような世界になるかも、という提示なんだ。
「こんな戦争」と主人公は言う。知識として敗戦も知ってる。放り出された世界でとりあえず生きてく為には順応したふりをするしかない。だがそんな事もよく知らない子供は親の在り方に疑問を持ち同調圧力にあっさり洗脳されるのだろう。それが怖い。
そして迎えるラスト。
どういう着地をするのかと思って見ていたら。
そう来たのか。。。
この終わり方の破壊力といったら、ない。
タイトルの意味。
例えば、だ。
何らかの力で元に戻るか夢オチみたいな話に持って行って、安心したところで『ドカン』と来るという話にも出来ただろう。
しかし、そんなものも何もなくいきなり『ドカン』なのである。主人公以外の登場人物がどうなったのかもわからないままだ。
そこが単なるSFではないと我々にパンチを喰らわせた。
ある意味、視聴者は放置された。
考察やら伏線回収やらドラマ界隈では盛んだけれど、そんなものしてみたってどうにもならない。
戦争というものが起これば何も考える隙などないまま、こんなことに巻き込まれるだけだということだ。主人公は唐突にその世界に放り出された。『終りに見た街』がどんな街だったのかを見た。
もし考察をするというなら、スマホを踏みつけて行った人物についてだろう。『あの時代』の青春たちが現代を嘲笑っているかのように見えた。
あと、思わせぶりにプロデューサーらしき男が戦時中に出現する意味。これはラストのスマホと呼応しているのだろうか。
いずれも真相はわからない。視聴者は完全に置いてけぼりだが、そうして突き放されることで私たちは思考する。
これは多くの人が見るべきドラマではないかと思う。他人事ではなく自分事として突き付けられるからだ。
ここから何を受け取るのか。所詮ドラマだ、と何も受け取らない人もいるかもしれない。もしかしたら防衛を強化しなければと考える人もいるだろう。
だが込められてるのはやはり『反戦』ではないかと思う。
残念なことに、そもそも見ようともしてない人もいるし、私の住む地域では放送されていない(私はケーブルTV経由で見た)し、TVerもあるものの、それを選択出来ない人もいるだろう。
だから、せめてこうして感想というか何かしら文章に残すくらいはしないと、と思った。
『火垂るの墓』が放送されなくなり、今世界で起こっている戦争も遠いものとしか思えない日本人には、このくらいのショック療法が必要なのではないだろうか。
今、この時期にこの物語が放送された意味を、意義を考えなければ。
明日は我が身だ。