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火葬場のこととか

ここのところ、火葬場の時のことが頭の中を何度も浮かんできて少し参っている。

私がいままで火葬場で人が焼かれてしまうのを見たのは母方の祖父の時だけなのだが、それも10年ほど前の記憶だ。その記憶が気を抜くと再生されてしまう。

なにか明確なきっかけがあったわけでもないし、思い出している記憶が本当にあの日あの時の記憶なのかはもう定かではない。

ただ、銀色の台に乗せられた祖父が窯(?)に入れられ、その間に親族で食事を摂り、終わったら祖父が骨になって出てくる、というのは衝撃的な体験であったことは確かだ。

食事の間に焼かれてるって、祖父はメインディッシュの七面鳥の丸焼きにでもなってしまったのか?とも思ったし、いや食事なんて食えるか!と泣きながらも結局はもりもり食べてしまったし、キレイにしてもらった遺体がただの骨に変わってしまった時、「ああもう取り返しのつかないことをしてしまった」という気持ちになった。焼かれる前の遺体だってもう既に手の施しようがないのに、私はどこかでなにかを期待していたらしい。

出てきた骨を拾って壺の中に入れる時、いっぱいになったら係の人がバリバリと骨を砕きながら壺の中に詰めていたのがびっくりした。優しさと恐ろしさとが混在していて化け物みたいだった。「骨がしっかりしてますね。健康だった証ですね」って言いながら砕いていて、それなら良かったと当時は思ったが、いま思えば「不健康だから死んだのだが?」という気持ちでいっぱいだ。祖父はガンで亡くなった。

最期に会った皮膚が骨に張り付いたような状態の祖父の姿は衝撃的だったし、その祖父に会った翌日に亡くなり、「貴方たちに会えて安心したのよ」と言われた時は自分が死を与えたようで、死神となんら変わりない存在じゃないかと思った。私に会わなかったら祖父は死ななかったのだろうか。懸命に目を開いて私を見つめた祖父は、なにを思ったんだろうか。

いま、母方の祖母がガンで苦しんでいる。いろんな所に問題が出てきて、もしかしたら危ういのかもしれない。いまは入院していて顔も見れないので、私は死神にすらなれない。

最後に顔を合わせたのは昨年の正月だろうか。私に直接は言わないが、孫を期待していた祖母はまだ期待しているのだろうか。もうそれどころではないのだろうか。かなり気持ちが落ち込んでいるらしいので。

でも私は祖母のために自分を捨てることは出来ないのであれから変わりなく日々を生きている。

火葬場での記憶を思い出してしまう度、祖母はいま大丈夫なのだろうかと考える。祖父の死に、ひと粒涙を流しただけの気丈な祖母は。

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