平凡に生きてえらい
性善説は人間を愛しているけど、決して個人を評価してはいないのではないか、と思ったりした。
生まれながらにして善であり、人を悪にしうるのは環境だ、というのはいかにも優しげな言葉に思えるが、一方で善であることを当たり前のことと捉えている言葉にも思える。平凡に暮らしている人間にしてみれば、それはなんだか冷たい言葉のように感じる。普通に暮らしていても「それは当たり前のことだから」と言われているような気がする。(完全に被害妄想だという自覚はある)
性悪説は根を悪としているから、平凡に暮らすだけでも「自分を律して偉いね……」と思える。いま悪いことしてしまっている人にだって、「人間なんてみんな根は悪だから……でも変わることはできるよ」という変容可能性を示す為の言葉になるんじゃないだろうか。知らんけど。
いままで性善説の考えの人の方が優しさに溢れている、と個人的に思っていたのだけど、実はそうでは無いのかもしれない。性悪説の方が優しいのかも。そもそも根が善だ、というのはなんだか重いし。
善とか悪とか知るかよって感じだが、私は今日から性悪説を支持していこうと思う。平凡に生きてえらい。
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