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湯呑みから考えることじゃないだろ

川沿いを歩いて帰っていたら、湯呑みが底を上に向けながらプカプカと浮かんでいた。「墓地に供えてある湯呑みみたいだなぁ」と思った。だけど、私の祖父の墓に供えてある湯飲みが似ているだけであり、他の人から見たらただのオジサン向け湯呑みなのだ、ということに気付いた時、頭の中がスッとした。アハ体験。墓に供えてある湯呑みが各々違うことくらい分かっていて当然なのに。

よほど特徴でもない限り他人の墓を見ないもんなぁ〜と思ったけど、そういう訳でもないよなぁ〜とも思った。我が家が管理する墓がまだひとつしかないからかなぁ。

幼い頃から通っている墓。この下に叔父さんが埋まっているのかぁと考えると昔はとても恐ろしかった。見たことの無い叔父の遺体なんて幼い私からしてみればそこらのゾンビと大差ない。お墓は怖いところと相場が決まっている。

数年前に祖父がバキボキに折られて骨壷に入ったあと、同じ墓に入れられた。自分の生きる世界とその墓の中は地続きの世界なのだ、と思った。私がその墓に入ることは無いのだろうけど。

お墓の雰囲気自体は嫌いではない。私が行く墓は市営の共同墓地だが、寺社に入る時と同じくらい神聖な気持ちになる。特別な信仰を持たない私からしてみれば、墓の下の人をひたむきに想っている美しさは信仰と似ているのではないか、と思う。まぁ寺に墓はあるし…(適当)

最近コロナのせいでお墓に行けていない。夏になるとお墓に行かなきゃと特に思う。夏とお墓は私の中で強く結びついている。お盆の影響だろうか。人の家のお線香の匂いを嗅ぐとキュンとする。キュンっていう表現は適切じゃないかもしれないが、キュンとした時と同じ痛みを感じる。不思議だ。

今年の夏は父母がお墓に行けそうにないとのことなので私たちが墓参りに行くことになった。木陰がなくてとても暑い事や、水を掬う時にプラスチックの柄杓と手桶がぶつかる音など思い出す。なんの変化もない墓場だ。変化がなくてとても落ち着く。死ぬってそういう事なんだな、とか思う。

ここまで書いて、「あ、今あんまり調子良くないんだな」と気づいた。でもこういうことを書いている時の私の集中力はすごい。ずっと考えていられる。ちょっと恍惚というか、スッキリする。こういうのってなんなんだろう。別にいまの私は生きる気満々なんですけど。

お腹が空いたし。身体が生きようとしてるなぁ〜と思う。いい事だ。なに食べようかな。

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