125ccで日本一周 東日本編#4 青森県青森市~埼玉県朝霞市(帰宅)
11月4日 @青森県青森市
考えうる限り最悪の寝起きであった。
エアコンを効かせすぎた腹痛で目を覚まし、朝から下痢を垂れ流す。買っておいたはずの煙草は見当たらず、1日の中で一番うまい寝起きの煙草タイムを逃す。快活の無料モーニングはタイミング悪くクチャラーと席を隣り合わせる。
「まァ、安く泊めてもらってるんだから文句は言えまい……」仕方のないことなのだが、どうも釈然としないまま快活を後にした。ホテルの比較的高め(とはいっても6000~9000円くらいではあるが、金欠大学生にとっては結構な大金なのだ)の価格設定は、こういったトラブルへの保険金として機能しているのだ、と実感した。
ともかく、今日こそは青森を脱して日本海側へと駒を進めなければならない。
大間岬という目標を達成した今、次なる目標は「帰宅」であった。
8:30 ねぶたの家 ワ・ラッセ 到着
青森の市街地をしばらく走り、ねぶたの家 ワ・ラッセに到着した。ここは青森の短い夏を象徴するねぶた祭りを一年中見られるように、と実際に使われたねぶたを色々と展示しているところだ。
中々に入場料が高かった記憶があるが、このときの私は「AKIRA」という言わずと知れた名作SF漫画の映画版にねぶた祭の掛け声が使われていた、という事実から、かなりウキウキで入場した。
恐らく、この日の来場者の中で私が一番楽しんでいたのではなかろうか。そのくらい、私はキャイキャイ言いながら写真を撮りまくっていた。
9:30 青森市脱出
ガソスタで給油を済ませ、いよいよ2日と少しお世話になった青森県を脱出する。青森に来た時と同じ、八甲田山を経由して十和田湖をかすり、本日は北秋田市の「マタギ資料館」が目標だ。その後のことは、あたあとで考えることにする。
しかし、その八甲田山がとんでもない濃霧に襲われていた。2m先も見えない状態で私は、ホタルの光よりか細いバイクのライトを照らしつつ、前を走っている軽自動車を先導として歩みを進める羽目になった。
その軽自動車は観光バスに追いついた。八甲田山の山道を観光バスは亀でも抜かせてしまうくらいのノロノロ運転で進む。山道なのにその観光バスを起点に大名行列が起こっていたし、一向に道を譲ってくれる気配もない。
対向車の観光バスとはすれ違えず立ち往生する。
イライラした後続車が観光バスを抜かそうとし、対向車とあわや正面衝突、という結構危ない場面にも遭遇した。
しかし、私の心はそんなことでイライラしているほど小さくない。
もっと小さいので、チェーンから響く異音がもはや手のつけられないところまで来ていることに気を揉んでいたからだ。
私のはシールチェーン(なんか壊れにくくてすごいやつ)なのだが、完全にこの旅で寿命が来たらしい。オイルを注入してもダメらしく、半端ではない金属の摩擦音を撒き散らしている。
11:10 奥入瀬渓流 通過
この時期は紅葉のシーズンであり、青森のクソ僻地に色とりどりの二足歩行がひしめき合っていた。
ただいるだけなら良いのだが、当然のように車通りの多い道路を横断し、「そこ置いちゃいかんでしょ」みたいな場所に車を路駐し、突然止まって後続車の肝を冷やすことに執心している。そろそろいい加減にしてほしくなってきた。
また観光バスに絡まれる。前に進まず、ただ時間だけが過ぎていく。
手はもはや「寒い」を越えて「痺れる」。北海道に「しばれる」という方言があるが、なるほどこういう感覚か。体は芯まで完全に冷え切り、震えは止まらない。足の爪先から脳のてっぺんまで、私の全神経は暖を欲していた。
11:40 十和田湖到着
観光バスのトンデモノロノロ運転に巻き込まれてちょっとおかしいくらいの時間がかかった。正直結構イライラした。こんなことでイライラしたしてしまう私は、まだまだ子供である。
11月上旬の十和田湖の気温は1桁だ。バイクで走ると走行風で体感温度は氷点下を雄に下回る。
目に涙を浮かべ、鼻はトナカイのように真っ赤にしながら十和田湖周辺の「あたたかい何かが食べられる場所」を血眼になって探す。
そうして見つけたのが、「十和田湖マリンブルー」というカフェであった。湖のほとりにひっそりと佇んでいるこのカフェが、私は砂漠のオアシスのように見えた。
12:30 十和田湖マリンブルー
店に入ると4人掛けのテーブルに通される。私はメニューを一瞥し、ホットコーヒーとアップルパイを所望した。
テラス席もあるようだが、今日は雨で閉鎖していた。室内には5組かそこらが入れるくらいの席があった。
すぐにホットコーヒーが出てきた。私はしばらくカップを触って指先の感覚を取り戻し、全神経に火を灯していくようにゆっくりとすすっていた。
やがてアップルパイが出てきた。拳のサイズくらいある大きな林檎がパイ生地に包まれている。フォークで上手いこと切り取り、少年のようにパイを頬張る。
りんごの自然な甘さとバターが鼻を抜け、控えめなシナモンの香ばしい刺激臭が跡を引く。絶品であった。こんなに林檎の詰まったパイは初めてだ。
ゆっくりと食べ進めていくと、私のいた4人掛けのテーブルに3人家族が座ってきた。相席だ。
小さい子供が私のパイを見て「あれたべたい」と言って母親を悩ませる。「あんなに大きいの食べられないでしょ」と標準語で諭す母親と、子供をあやす父親がいた。
やがて子どもは泣き出し、駄々をこねた。親がいたたまれなくなった私はフォークを左手に、子供に「お兄さんの一口食べる?」と訪ねたが、母親は「悪いですから」と断った。20そこらのガキに気を遣われるのを潔しとしなかったのだろう。
とはいえ子どもの声は高架下を走る列車のような爆音になっていた。大きい声が苦手な私はばつを悪くして、残りのコーヒーとパイをするすると胃に流し込み、お会計を済ませて外に出た。
子どもが苦手なわけではないのだが、どうも子どもの泣き声は苦手だ。誰も悪くないのが余計にタチが悪い。
「世の中は子どもに優しくすべきである」とされる昨今の日本において、4人掛けのテーブルにぽつんと居座る私のような人間は邪魔である。分煙と同じだ。
みんなの気遣いでどうたら。言ってることは「八紘一宇」と同じようなものだ。そんなものは仮初めに過ぎず、誰かの我慢や犠牲によって成り立つのだ。しかし、世の中が八紘一宇を推しているのなら仕方がない。
13:00 出発
ハンドルカバーをつけることにした。
死ぬほどダサいこのハンドルカバーは、防寒の観点からは最強であった。おばあちゃんのバイクになる代わりに、寒さとはおさらばだ。
奇跡的に荷物の奥底から出てきた貼らないカイロ2つをこのハンドルカバーの中に入れ、手が入るコタツのようにした。
さて、出発する。ここから秋田県に突入し、北秋田市の「マタギ資料館」へと向かうつもりだ。
近くにツキノワグマの飼育地があるそうだが、私は動物よりも人間の痕跡が見たい。
しばらくは休憩も取らず、ひたすらに走り続ける。
私は度々このようにほとんど休憩も取らずに何時間も走り続けてしまうことがある。その時、私の意識は内側へと向かっている。
北東北の刺すような寒さ。通り過ぎては現れていく奥羽山脈の景色。風を切っていく音。ヘルメットの中に仕込んだスピーカーから流れるクラシック音楽。淡々と「運転」という作業をこなしていく行動。これほどになくリラックスした脳内。
自分宛てに書いた短い散文の便箋を留めるものなどはなく、ただひたすらな自省をとりとめもなく続けていく。
ヘルメットの中は外界から隔絶された小さな監獄だった。私はエンジンの振動に揺れる教誨室て、己の罪を淡々と告白する。
しかし、そこに牧師はいなかった。いるのはガタガタと音を立ててけたたましく返事をする鉄の馬であった。
祝福は与えられない。神の乱立が起きた20~21世紀において、私の中のイエス・キリストは管理通貨制度、周囲からの称賛、ただ一人からの目線、安定した将来、その他。
すべては偶像であって、これの崇拝は禁止されていることであった。
祝福は与えられない。偶像を崇拝しているからだ。
ただナビの指示通りに進んでいき、気がつくと田沢湖の近くにあるダム湖・宝仙湖のほとりまで来ていた。
ここまで3時間は走り続けている。町らしい町もなく、ほとんどコンビニもない奥羽山脈の中をかき分けていたからだ。
しばらく進むと、NAVITIMEが訝しげな道を案内してくる。どう考えても林道である道を提案してきたのだ。
さすがに月額600円も払っているのだから変な道を通すこともあるまい。
私は一抹の不安を抱えながらその道を進む。
しかしその道はあろうことか、未舗装路だったのだ!
CT125は未舗装路もある程度までであれば難なく走ることができるため、まだ先を進んでいく。
しばらく走っていくと、ふと視界がひらけ、道路が舗装された。
すれ違う車もいない。
嫌な予感がする。しかしここで下がるわけにもいかない。まだまだ進んでいく。
車線が広くなり、大きなトンネルが現れた。
しまった。私は口からそう漏らしてしまった。嫌な予感は的中した。
トンネルを塞ぐ巨大なバリケードと、「通行止」の文字。
私はその文字列に恐怖を覚え、身震いをさせながらバイクを速攻でUターンさせて元の道に戻った。
国道に戻り、しばらく走って公衆トイレにバイクを停めた。
「クソが!!!」私はいつになく毛羽立った声でそう叫び、もはや無用の長物となったスマホではなく、紙の地図を使ってマタギ資料館までの道を調べる。山を迂回するので少々遠回りにあるが、これ以外に道はない。
もはやNAVITIMEに慈悲はない。私は怒りのあまり、その場でNAVITIMEを解約し、今日に至るまで使っていない。
秋田の山中にはもはや電波など通っていなかった。電波のないスマホなど、反射板くらいの役目しか持たない、釘も打てないただのか弱い直方体だ。
15:30 道の駅あに
またここから40分ほど走り、道の駅「あに」に到着した。
ここでひとまず一服し、完全に途切れていた集中力を回復させた。
この道の駅はマタギの里が近くにある。
マタギとは日本の山岳地帯にて伝統的な方法で狩猟を行う人々のことである。独自の宗教観や生命倫理を育んでいることから、近代以降のハンターとは区別されている。
ここ出羽国において阿仁は非常に有名なマタギの里であり、漫画『ゴールデンカムイ』にもここのマタギ出身のヒロインがいる。
明治期にマタギの携行食として用いられたバター餅と飲み物を購入し、山中深くへと侵入していく。
15:45 マタギ資料館 到着
温泉が併設してある資料館であった。200円位を払って資料館へ進む。
まず東京にいては接種できないであろう貴重な情報が、現物を交えて丁寧に説明されている、これ本当に200円でいいのだろうか。不安になってきたくらいだ。
そしてここ阿仁には鉱山もあったそうだ。マタギと鉱山からの恩恵によってかなり幕府からの覚えも高かったそうな。
大変に興味深い展示を見、知的好奇心を刺激されて疲れも少し和らいだ。
さて、ここからどこに泊まるかをわたしはまだ決めていなかった。
ほぼウォークマンくらいの役割しか果たしていないiPhoneでG.フォーレの『シチリアーノ』をかけ、地図を見渡す。
どうやらここ阿仁から2時間ほど走ったところに、横手市というものがあるそうだ。ここは交通の要衝であり、明日行こうと思っていたにかほ市や山形県内へのアクセスに優れている。ここに決まりだ。
夜の秋田県にはもはや街灯など存在しない。まばらに人家が見えたと思えばまた消え、集落に差し掛かったと思えばあっという間に通り過ぎる。
恐ろしい速度で走り去る地元の車に道を譲りつつ、横手への道を急ぐ。
18:00 横手市 到着
横手市は大変こぢんまりとした街であり、駅とその周辺のロードサイド店舗で市街地は尽き果ててしまう。
私は駅前の快活CLUBにて受付を済ませて荷物を置き、横手名物である「横手やきそば」をいただくことにした。
ここは後々調べてみると「横手やきそば暖簾会」という横手やきそば公式みたいなところには加盟していないらしい。しかしここの焼きそばは絶品だった。
濃すぎない味付けの麺はもちもちであり、逆に濃い目の味付けをしたホルモンと絡めて食べると最高である。
明らかに観光客の装いである私に店主は「ガーリックパウダーを掛けて食べるのがおすすめ」と教えてくれた。その通りにいただくと、にんにくのツンと来る香りが濃い味付けのアクセントとなって合う。
このお店は焼き鳥もやっていたようで、ハツと皮をいただいた。こちらも絶品であり、ビールとハイボールを1杯ずつ飲んで長旅の疲れも忘れる心地だった。
秋田の名物は恐らくここしかない。秋田に行って横手やきそばを食べない者は秋田を観光したとは言えないだろう。
酔った勢いで快活に戻り、そのまま就寝。今日は殆ど観光ができなかった。
11月5日 @秋田県横手市
朝起きて、昨日から異音が響き続けるチェーンを確認する。
やはりダメになっているようだった。それどころかチェーンを調整する部分もナットが舐めて動かない。これは家に帰ったら修理が必要だ。
さすがに帰らざるを得ない。日本海側唯一の政令指定都市である新潟市まで赴き、そこから関越自動車道に沿って朝霞まで帰ることにする。
その前に、行きたいところがある。
10:00 秋田県にかほ市
私は藤本タツキの狂信者である。なので、藤本タツキの故郷に来た。
最近は「ルックバック」という映画にもここの本屋が出てきた。ここでルックバックを買ったら店主のおじいさんに話しかけられた。
高校生までこの本屋に通っていたことを話してくれた。ニッコニッコであった。
さて、ここからは帰路に着くことにしよう。にかほ市から先、国道は海岸沿いに放り出される。銃の悪魔が出たであろうにかほ市の海岸沿いに沿って走り、もうすぐ鳥海山が道を隔てる。羽後と羽前を隔てる大きな峠が見えた。
裾野を日本海に浸している秀麗な山体に惚れた宗教家はやはり多いらしく、修験道になっていた。
12:00 道の駅鳥海ふらっと
同じ所沢ナンバーのSR400乗りと出会った。私のチェーンからやかましい音がしているのを指摘していたことをきっかけに、話が弾んだ。
実家が朝霞(なんと!ご近所さんであったのだ!)、今は庄内に住んでいるようで、地元の話を一通りした。もうほとんど実家に戻っていないそうで、色々と聞いてきた。国道のバイパスが開通したこと、未だに所沢の道路は欠陥であること。最寄り駅に急行が止まりだしたこと、上板橋に準急が止まって池袋までの時間が伸びたこと、近所の坂のふもとにある地元のパン屋さんのこと。
「今の埼玉はどうなっているんだい」。そう聞いた彼の目は、あの見慣れた朝霞野が映っていた。
13:00 山形県突入
所沢ナンバーのバイク乗りと別れ、足つきの悪いCT125に飛び乗る。
鳥海山を越えると山形県、庄内平野に入る。新潟に並ぶ日本屈指の穀倉地帯である。二大都市である酒田市と鶴岡市を通過していく。
典型的な地方のロードサイドが立ち並ぶ。都会人はこれを見て興奮するらしいが、関東郊外のクソデカ駐車場が立ち並ぶ国道沿いに生まれた私は、「あ、埼玉だ……」という感想しか湧いてこない。
こう言うとアレだが、ここ庄内平野は観光を軸とした土地ではない。というか、観光地ではまったくない。
酒田市のWikiを見てみると、「観光客も少なくはない」と描かれている。少ないってことだね。
庄内平野では、鶴岡に用があった。
吉祥寺に「もか」というコーヒーの店があった。コーヒー好きなら割と知っている人が多い(らしい)店だ。私は母親から聞いた。
2002年生まれの私は2008年に閉店した店の記録や味を知らない。「知らない」ということについてマウンティングされるのは癪だ。「お前は知らないから」云々。
標交紀。この「もか」の店主である。大阪の国立民族学博物館にてコレクションの展示があった。大阪で博物館旅行へ行った際に見た。前々からここへ行こうと考えていたのだ。
鶴岡に、その「もか」で修行を積んだマスターが店主をしている店があるという。私はそこに行くことにした。「コフィア」というお店だ。
天皇陛下にコーヒーを点てた名店である。入店してしばらくメニューを眺めた後、マンデリンブレンドを注文した。
これまでにこんなに美味いコーヒーを飲んだことはなかった。大変に上手いコーヒーであった。深いコクと苦みに鼻を突き抜ける華やかな香り。コレは美味い。豆を買って自宅のお土産として持って帰ったが、あれほどの旨味を再現することはできなかった。
15:00 新潟県突入
鶴岡を出て国道の長いバイパスを走り続ける。家の前を通る国道と同じような風景で飽き飽きとした。
思うに、旅は始まってから5日間までが楽しめるピークになるのではないかと考えている。それ以降は、いかに旅程をこなせるかの作業となってしまい、旅をしているときのドーパミンの分泌量が半減していく。慣れとは恐ろしいものだ。楽しいはずの非日常が日常と化してしまうののだから。
もう7日目だ。海風にバイクを揺らされながら、ひたすらに新潟市を目指す。
しばらく走ると、海に放り出された。
この日本海に沈む太陽の最後の輝きに、私のそんな廃れた精神も拭われた。美しきこの夕日を最後に見ることができた。
しばらく走り、笹川流れに入った。神が気まぐれで作り出した奇石が荒々しい日本海の波と夕日に照らされる新潟県北部の名所だ。大泉洋が「水曜どうでしょう」にてド派手なウィリーをぶちかました現場が近くにあったが、日も落ち始めていたので確認はできなかった。
ふと、止まった。この美しい夕日に呼ばれた気がした。バイクを泊めて公衆便所に置き、浜に出てみる。
消えゆく太陽が、もう二度と起こらない2023年11月5日を形ばかりに着飾り、そして休息につく頃であった。
私の旅は明日で終わりだ。明日の日中までには帰って、家で溜まっている就活のタスクを消化しなければならなかった。走れど走れど、そのタスクのことばかりが頭をよぎる。
東京に置いてきた人間関係。オフにしていたラインやインスタの通知。溢れては止まらない承認欲求の街・東京。これら全てとまた向き合い、タイマンを張らなければならないのだ。
ああ、すべてを捨てて楽になってしまいたい。ふとよぎったその衝動に身を任せた。
ざく、ざく。浜をかき分けて私は足元まで海に浸かった。
このまま流されてしまえば、私はもうなにかに悩む必要もないし、誰かを苦しめることも、誰かに苦しめられることもないのだ。この絶望は……
そこまで考えて、私はまだケツまで青いな、と感じた。
「鬼火」(La Feu Follet)というフランスの映画を観た。アル中の主人公が自殺を遂げる前に旧友と再開し、ぶつかって結局自殺する映画だった。
エリック・サティの「ジムノペディ」が流れながら、ヌーヴェル・ヴァーグ特有というか、娯楽映画を嘲笑するような冗長な展開が特徴だ。
知り合いを訪ねても、その生き方がどうも気に入らない。安定を手に入れた友人、シャブで退廃的な暮らしをしている友人。主人公は裕福な暮らしを送ってはいるが、特別な「なにか」を待っているようだった。
父が言っていた。30を過ぎると、己の人生における大体の展開が見えてしまう。それが「一年が早い」とのたまう人間の正体だ、と。
希望、若さ、情熱。若さの象徴からの解放。「若者」から「おじさん」へのステップアップ。同時にそれは、人生を消化試合にしてしまうことの現れでもあった。そんな「おじさん」化による人生の可視化。それは自分が凡夫であることを神から宣告された、ということだ。それは「絶望」ではない。あるのは「虚無」だった。
さて、私はどうだろうか。私は「おじさん」という虚無に耐えられるのだろうか。私は、この映画の主人公のように「何者かになりたかった。しかし何者にもなれなかった」という内なる叫びを秘めたまま死んでいくのだろうか。
日本海からの風が吹き荒れる。じりじりと靴の中に入ってくる海水。おもむろにポケットからタバコを取り出し、火をつける。
じっ、じっ。じっ。火がつかない。行く前に満タンにしておいたジッポのオイルが切れたようだ。
途端に肩の力が抜けた。
海水から足を抜き、ゆったりと浜を歩いていく。
頃合いか。
母親に電話した。
「明日、家につきます」と。
2023年11月6日 @新潟県新潟市
新潟駅のアパホテルに宿泊し、10時にホテルを出る。昨日は最後の晩酌を済ませた。古町というエリアに宿泊したが、大変に寂れており絶句した。万代というエリアは賑わっていたが。人口77万の政令指定都市がこの実情なら、日本は危ういかも知れない。
此処から先の記録は殆どなかった。家に帰ってから書くエントリーシートの文言を頭の中で考えながら運転していたからだ。
長岡で食事を取り、そのまま走り続ける。
とにかく、今日は家に帰ることだけを考えよう。それ以外のことを考えると心が苦しくなってしまうから。
思案と旅の続きは、就活が終わってからだ。
関越道路に沿う国道を走り、国境の長い峠を登り、群馬県へ。
峠の下り坂から見える関東平野のきらびやかな光。その一つ一つが私をじっと見つめているようで、不愉快な汗がにじみ出た。
そのまま熊谷まで行き、少し休んだ後に朝霞市まで帰った。
あっけない帰宅だった。そして、なんともあっけない旅の終わりであった。
その後、私は3月くらいまで就職活動にフルコミットし、早期選考で第一志望……というわけではないが、まァそれに近い類の会社から内定をいただくことができた。今こうしてnoteを執筆しているのは、将来が見えたことによる心の余裕によってであることに他ならない。
また9月頃に西側すべてをめぐり、その記録をここに残したいと考えている。その時、皆様方とこの記事でまた会えたら、それまでに私を忘れないでいてくれたら、これに勝る喜びはない。
最後はフランス文学科らしく、私の好きな男の一文を紹介してこの旅を締めくくりたいと思う。
さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。