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125ccで日本一周 番外編#1 親父の黒いCB-1

2002年9月23日。この世にまた無益な二酸化炭素排出機が生まれた。
私だ。
広島・呉の港から山を何個か抜けた先の小さな集落。母親の里帰り出産により、私は広島にて生まれた。

5歳。私が秩父から埼玉・朝霞に引っ越してきた時も、寝坊した時も、ずっと家の傍にあったバイクが有る。
CB-1。親父がずっと大切にしていたバイクだ。親父が高校生の時に兄貴から譲り受け、それから紆余曲折ありながらも筑波の実家にてずっと現役を張っていたらしい。
399cc DOHC直列4気筒エンジンの迫力はさることながら、「スーフォア」ことCB400SFにすべてを持っていかれた薄幸な生涯、レトロで奥ゆかしい外観、そしてカムギアトレインの美音は、幼い私が「バイク」に興味を持っていかれるには十分すぎるものであった。
長男である私は、親父の後ろに乗せられ……というか「載せ」られて何度かツーリングに行ったことがある。
「バイクかっこいい」。私はいつも親父に伝えていた。親父は「不人気車だからなァ」とは言いつつも、数少ない休日にはその「不人気車」なバイクを数時間かけて磨いていたのが印象的だった。

パッパ


ある日、私は親父の後ろに乗って、秩父鉄道のSLを見に行った。まだ8歳程度の私は全く覚えていないのだが。
その時の父は、いつも暗い顔をしている父は、ずっとにこやかだった。私はそれだけを覚えている。

2014年。親父は倒れた。



母は電話でその知らせを聞き、まだ当時小学6年生の私も、その時4歳だった三男も置いていき、血相を変えて家を飛び出したのを私は鮮明に覚えている。

過労だった。
親父は数日間の入院後、すぐに職場へ復帰した。どうやら建設業界という場所はとんでもない職場環境のようだ。やはり帰って来る日は少ない。
父は私達息子には言わないが、私は知っている。朝の5時に帰ってきた父が、風呂でえずいていたことを。そして何事もなかったように風呂を出て、まだ小学2年生くらいだった次男の頭をガシガシと撫でていたことを。そして中学生だった私と一緒の朝7:30、私と一緒の道を歩いて新宿の現場に行っていたことを。
中学生の私はそれをたいそう嫌った。父親と一緒に歩きたくないから、小走りで学校まで行ったりした。私はひどいことをしたと思う。当時反抗期だったとはいえ。

ある日、家の前に軽トラが止まっているのを見た。「あれ何?」私が聞くと、母は言った。「バイク、売るんだってさ」。

私は少なからずショックを受けた。売った3日後に現場から帰ってきた父に聞いた。「なんでバイク売っちゃったの?」
「あんまり乗る時間もなくてねェ」。父はそう答えた。「置いとけばいいじゃん」。私の問に、父は何も答えなかった。
きっと父は、もうバイクを見たくなかったのだろう。ほとんど家に帰れない自分が、バイクという自由の象徴を見ることに対してひどい抵抗があったのだろう。
父親はいわゆる「族」上がりだ。学歴も職歴もない。しかし背負うものはたくさんある。私を含めた子ども3人の養育費、大学に行くならその費用、老後の金、家のローン、その他。辞めようにもやめられなかったのだと思う。親父には、自分を犠牲にしすぎてしまうきらいがあると思っている。きっと親父も自分のことなのだからそれは重々承知であろう。

この頃、家にあったハイラックスサーフも売られた 父の趣味が一つずつなくなっていく感覚がした



その頃から、父はよく母と喧嘩するようになった。私はそのたびに弟を2階へ上がらせ、ほとぼりが覚めるのを待っていた。
弟が泣き出した。母親がそれをかばう。子どもを人質にして、父を孤立させる。いつも喧嘩の結末はこうだ。
私はそれに対して、何もできなかった。動くこともできず、父親を見つめることしか。

私はその頃――確か中3くらいだろうか――から、割と父親の方に立つことが多くなった。今でも父親は母に何かと責め立てられるのだが、私は大体、親父の味方だ。

19歳。私はバイクを買おうとした。CT125・ハンターカブである。母は猛反対した。「バイクは危ない」「親父みたいになる」。まァ、いつも大人しい、なんにも文句を言わない長男坊が突然バイクに乗るなんて言い出したのだから、そりゃ驚くだろう。
母は猛反対した。しかし、父は大賛成だった。
父は財布からお金を私に渡してくれた。「バイク代の足しにしろ」と。5万円だった。
後に知ったことだが、父の小遣いは5万円だ。
いつも小遣いが足りなくて「前借りとかって……」と母親にせがんでいる父親だ。私は驚いた。
「いやこれ、お金大丈夫なの?」私はしどろもどろになった。父は言った。
「ガキが一丁前に親の金の心配すんじゃねえ」。


CT125が納車された。親父は私のCT125によくまたがり、エンジンを掛けて空ぶかしをしている。これは現在進行系だ。
「いい音だ」。ある日の夜、二人で家の酒をすべて空にした日の夜、家の駐車場でメビウスを吸いながら父親は言った。私も父に並んでハイライトに火を付ける。
「職場まで乗っていく?」「原2なんて乗ったら俺の名がすたる」。父は私のバイクにまたがり、ふかしてエンジン音を聞きながらそう答えた。

「じゃ、俺がCB-1買い戻したら、親父は乗る?」私は親父に聞いた。親父は豪快に笑い飛ばした。
「息子が一丁前に親の心配すんなっての」。親父はそう言ってタバコの火を消した。バイクの鍵を抜いて、親父は家に戻ろうとした。
「あったら乗るでしょ?俺来年から国家公務員だよ、CB-1なら多分買い戻せるよ」
「乗んねーよ、不人気車だから。スーフォアにしてくれ」


日本一周に出る前、父親にも挨拶した。家の前でタバコを吸っていた親父に、「ちょっと、カブで日本一周を」。「行ってらっしゃい」。
前に飲んだとき、親父に日本一周計画はもう話していた。父親は灰皿の前から動かなかった。

ヘルメットを被ってエンジンを掛けるとき、父は大きめの声で私に言った。
「死ぬなよ、楽しめ、うんこ漏らすなよ!」

「漏らさねーよ!」

うんこは佐賀で漏らした。

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