昔。大好きだった身近な人に重いといわれたことがある。
昔。大好きだった身近な人に重いといわれたことがある。
存在ではなく、音楽が。
その人も音楽家であった。
彼が貸してくれるCD、すすめてくれるライブ、それらはとてもお洒落で、ミュージシャン同士が楽しんで音を奏でているのが観ていて聴いていて分かるような音。
この一音に命をかけてます。
そういった音の出し方は、受け取る側にとって重たい。と。
単純に彼に嫌われたくなかった私は、とにかく「軽く」を心がけた。
確かに、ステージはエンターテイメントだ。
私の人生や個人的感情をお披露目する場ではないのかもしれない。
ちょっと「軽く」を意識したときに見えて来た物があった。
お客さんがどんな顔をしているのか、とか、
共演者の心理状態とか、
時には演奏しながらまったく関係ないことを考えることもあった。
そんな私の演奏の変わりぶりに気付いたお客さんの意見は大きく2通りあった。
「以前より聴き易くなった!」
「気楽に楽しめるようになった!」
もう一方は
「あの命懸けてます的な姿が好きだったのに」
「お客さんに媚びているようにみえる」
同じ演奏しても、好き嫌いがぱっくり分かれるなんてのは
小さい頃から受け取り慣れているので「ナルホドな」と思った。
結局感想というのは、良い悪いではなく、
受け取る側の因子によるものであるなと。
そして、
さらにその感想を受け取る私の感情というのも、
結局その時点の自分自身にある「因子」によってなのだけど。
そんなわけで、
重いと言って来た相手に嫌われない自分になりたいために、
どんどん「軽さ」を追求していった。
でも面白いことに、軽いって、気を抜くってことではなかった。
そして、色んなステージを観ることで、
計算されつくした軽さや、
その人自身の人格の表れの軽さや、
エンターテイメント性というキーワードからの軽さ、
色々なものを知った。
お陰で、引き出しが増えた。案配を少しずつ学んだ。
TPOだなということも知った。
そして、客観性という言葉が好きになった。
音の中に自分が入り込まないことで、むしろ見えて来る音楽が沢山あることを知った。
その後に、音楽の中に居るひとの音に出逢った。
その音は、本当に、重かった。
あまりにも、心の中の魂が素直に共鳴した。羨ましくて、悔しかった。
重いのに周りを全て見透かしているようで、
入り込んでいるのに、いや、入り込んでしまうのは聴いている方で、
結局、その人は全て確信犯で操作してるのか、
いや、ただ、音楽とつながろうとしていただけだったのか。
「軽い」「重い」という言葉で簡単に言えるトピックではないのかもしれない。
けれど、簡単にいえば、この、軽い、と重い、の間で、
この時期、色んな案配を試し、反応と実感を体感できたことは、
とても良かったのかもしれない。
Youtubeに、「ピアニカおじさん」という映像がある。
この軽い、重い、を思い出すと、この映像も思い出す。
エンタメ性の中に、神聖な思いがないなんてことはない。
ただ音楽と向き合うことは、聴き手を無視することでもない。
さらっとした音楽の中に、もの凄い重たいメッセージがあることもある。
演じきる、という面白さは、極めて冷静な客観性があってこそだったりする。
ワザとして、色んな引き出しがあることもきっと悪くない。
むしろ、まったく足りない。いくらでも、増やしたらいい。
でも多分、以前より、何かがぶれなくなった。
自分が大好きな誰かに嫌われたくないというたぐいの想いが必要なくなった。
誰に何と言われても知りたい、ある域があって、
多分、音楽続ける限り追い続けるんだろうなっていう確信。
今の自分になんて自信ないけれど、
その域のカンカクに、多分確信があるから、
不必要に迷わないでいられるのかもしれない。
ポップスだから。クラシックだから。ジャンルで分けられる感覚とも違う。
きっと、ポップスでも、クラシックでも、もしかしたら人間関係とか、身体の体調とか運動とか、自然とか、
全部に、同じ感覚を追ってるのかもしれないな。
そんな近年。
(2011年5月19日 旧ブログ投稿記事より)
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