241020~26 ディヴェルティッスマン
日曜日
ずっと先延ばしにしていた退去費用を振り込んだ。家賃以下とはいえ、45000円は痛い。フローリング補修代の3万について尋ねると「相場はもっと高い。技術料だ」と言う。「それはわかったが、退去立ち合い時に入居時からすでにあった傷にまで言及されましたよね?」と問うと「はい」とこたえた。返す刀で私は「私より以前に住んでいた人からもこういった補修代を徴収されたんですよね」と問うた。それに対しても「はい」と答えたので「では、補修代を徴収しているのにこの最初からある傷が補修されていないのはなぜですか?」と聞いた。「補修代は徴収するが、実際にはこういった傷を補修するかどうかを決めるのは大家が判断する」と答えた。「つまり、私が支払うこの補修代金によってこの傷が補修されるかどうかはわからず、よってあなたが仰る技術料を支払う機会が発生するかどうか不確定であるということですか?」と問うと「そうです」と言う。「では、あなたは私にそういった用途不明のお金を支払えと言っているということですか」という問いに、少しあけて「はい」と答えた。「いい商売ですね」とほめると「ありがとうございます」と言っていた。ボケが。次賃貸を借りるときはめっちゃくちゃ厚いマットで床一面敷き詰めてやる。むかつくぜ。
鍋いっぱいのカレーをつくった。カレーづくりはよい。ストレス解消に持ってこいである。にんにくを切り刻み、しょうがを切り刻み、たまねぎを切り刻み、じゃがいもを切り刻み、鶏モモ肉を切り刻んだ。俺はカマイタチ。ホールトマトをぶち込み、シーフードミックスをぶち込み、煮た。
月曜日
テレフォン人生相談と夏休みこども科学相談を交互に聞いてしまう。この交互視聴は情緒がバグを起こすが、しかしものごとを考える脳には切り替わる。おすすめはしないが、たのしいっちゃたのしい。あるこども科学相談で「人間や犬や猫には心があると思うが、カエルやウサギや魚にも心はあるのだろうか」という問いを立てた小学四年生がいた。あまりの難解さに解答者として座る学者たちが頭を悩ませていた。結論として、学者たちは「魚や虫など、自分で動ける生物はどれも、たとえばつかまえようとしたときには逃げるよね。そういった意味において、それらにはなんらかの意志があることが認められる。つまり、生物は人間と同様に快不快を感じているし、それが行動理念になっている。ただそれは生存本能ともいえるし、それを心と呼ぶには少し抵抗がある。もちろんそれを心とする考え方もできるが……。結論として、あなたが"犬猫にも人間と同様に心がある"と思うとき、実際あなたのなかで犬猫の心の存在が確かになるように、そのほかのものについても"それには心がある"と思えるなら、それが真理ではないでしょうか」と答えた。これを聴きながら、私は向かいに座る職場の先輩に「ということは、つまり心というものは、"心"そのものとして存在しているわけでなく、あくまで付与できるもの、つまり関係のなかにしか生じえない、ということでしょうか?」と問うた。「そんなことばかり言うから、あなたはモテないのよ」と諭された。みなさん、つまり心とはゲームボーイアドバンスとゲームボーイアドバンスをつなぐ通信ケーブルのようなものなんです。よろしいでしょうか。
火曜日
エレカシの遁世がすごくいい。大学生時分に聞いていた時とはまた少し違う感じ方がある。秋に聴き冬を先取ったような気持ちや、冬に聴き春を先取ったような気持ちになるような感じは変わらない。もう10年以上も前のことなんだなとセンチメンタル。くだらねえ。
先月からの仕事の自動化がぼちぼち数字になって結果となってきている。時間の余裕と別の業務効率化の加速がすごく、日進月歩で業務改善されている。もはややりつくした感もあるが、来月には元いた配置に戻るので、そこでまた暇つぶしに何もかも変えてやろうと思う。
近ごろは寝る間も惜しい。本を読んだり、資格の勉強をしたり、映画やドラマを観て、犬を撫でたり、スキンケアやヘアセットの動画を見たり、とても24時間では足りない。6~8時間眠らないと使い物にならないこの頭と身体をこんなに憎いと思ったことはない。20代前半のころに戻ったような、そんな感じだ。生きていることそのものに意味を見出せたわけではない。"最後は必ず死んでなくなる"という考えは変わらない。けれど、こうやって誰にも侵されない"私"という絶対的な孤独を用いていろんなものを感じられることは最高にたのしいと思える。どうせ死ぬのになあって思いながら、笑みがこぼれる。
水曜日
仕事が休みで、朝から少し勉強した。このあいだprogateを年間登録したので、おためしにHTMLとCSSを学んでいる。class名をつけられるのが変数みたいで便利だね。終わったら次はRubyとrailsだ。
昼過ぎから外に出た。家電量販店でHDMIケーブルを買った。テレビにつなげると、きちんとPCの画面が表示されて最高である。少し解像度に難ありだが、いま使っているノートPCのバックライトがもう死にかけているので、しばらくこれで代用するつもり。百貨店にも寄って、ずっと気になっていた舟和の芋ようかんを買ってみた。めちゃくちゃ芋の味がしっかりしてておいしい。焼く前のスイートポテトみたいな、そんな感じである。“ようかん”に囚われて敬遠している人は一度勇気を出して食べてみるとよい。焼いたらほとんどスイートポテトやんってぐらい芋なので。普段甘いものを食べない父親がひと口たべて「うんま」と感嘆していた。そんな父親をはじめて見て、驚いた。百貨店をあとにし、書店へ向かう。最近ちょろちょろ見ているpythonVTuverのサプー氏の本がほしかったのだ。無事に見つけて、せっかくだからと少しほかも見て回った。國分功一郎の“暇と退屈の倫理学”を手に取ってまえがきを読み、序章を読み、そのままそれも持ってレジへ向かった。めちゃくちゃおもしろいです。おすすめ。書店を出て、職場の先輩が勧めてくれていたカレー屋さんにはじめて入った。日曜から火曜の晩までずっおカレーを食べているが、カレーは毎日食べれるのでよい。ナンではなくロティという薄いパンみたいなやつがついてるセットを頼んだ。おいしかったけど、やっぱりナンのほうが好きやなあ。
腹ごしらえを済ませて家具屋さんへ向かう。座椅子を購入するためだ。先日、父親が「このベッド北枕になってるから眠りが浅いんかなあ」と言い始めたのでベッドの向きを変えた。しかし明くる日、「やっぱりベッドやとあんまり寝れないから布団に変えます。ベッドはおまえにあげます」とのたまい、私の部屋の3分の1はベッドで埋まっている。いずれ生まれてくる弟と妹の子のために母親が買ったベビーベッドもあるので、それを組み立てたら3分の2がベッドになる。四捨五入すれば、そのうち私の部屋は、部屋からベッドとなる。そのような経緯があり、勉強をしているときにベッドの足が背中に当たって痛いので座椅子を買ったという次第だ。そこそこしたけれど、気に入っている。
木曜日
人間が遊牧生活から定住生活に移行したのは約1万年前らしい。約40万年前に誕生した我々ホモ・サピエンスは1万年前までの約39万年は狩りや採集をしながら遊牧生活を営んでいたそうだ。それから農業の伝来などあり、定住して暮らす、つまり今日まで続くような生活様式に変化したらしい。我々は定住する生活が当たり前すぎて、そのメリットばかりに目が行く。逆に有望く生活についてはデメリットが気になって仕方ない。しかし実際には我々は能動的に定住生活へと移行したわけではなく、差し迫られて遊牧生活を断念せざるえなかったという言説があるらしい。退屈と暇の倫理学にはそう書かれていた。ゴミやトイレという概念から宗教・芸術。法令・霊的観念から退屈まで、すべてはその移行がもたらしているという論点は非常に興味深い。
両親とかごのやで夜ごはんを食べた。父親の頼んだイカゲソの天ぷらが異様に大きく「これはもしかしてダイオウイカではないか」と一時騒然とした。食べ放題ということもあり、食べ過ぎてしまい少し後悔。
金曜日
自社ブランドの企画書と契約書の作成を任された。こういうプロジェクト系の仕事はルーティン脳から遠く離れられるからすごくワクワクふる。もっともっとくれ。システム改修のなんちゃってプロジェクトは、他人が介在しないので不確定要素がなくおもしろくない。
仕事を終えてから友人と映画を観た。2〜3年前は毎週末に封切りされたばかりの映画を観てみるというのをやっていた。観たい映画から普段見ないような映画まで、それはそれはたのしい習慣だった。お互いなにかと忙しかったりして、いつのまにかなくなってしまっていたが、ひさしぶり行けてよかったと思う。映画はイマイチだったけど、そういう経験が日々をゆたかにすることを知っているから、よい。
土曜日
ちょっとしたデータ抽出なら、アプリとツールを組み合わせてほとんど自在につくれるようになった。先輩に依頼されてもないものを作成して、ひとり興奮していた。
ラジオを聴き尽くしてしまったので、聴く占いを作業BGMにした。いわく、冬に転機がやってくるそう。これまで努力してきたことが実を結ぶそうだ。そんなものあったかなとは思う。不要なもの、たとえば仕事や人であっても、それは自ら距離を置くことをしなくても向こうから去っていくそうだ。“あなたのなかにかつてあった執着が煙のように消えていく”らしい。くだらねえと思いながら煙草をたくさん吸ってしまった。
明日は髪を切って、選挙に行く。住んでた街まで投票に行かないと行けないのが少し億劫なのを散髪というタスクひとつ足すことでなんとか足を向けようと工夫した。12月にはパーマあてちゃお。
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