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241027-241109 偶然とカロリー

あいつは虹の始まりと終わりをきっと一人で探しにいったのさ

漂流教室/銀杏BOYZ(アルバム"君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命"収録)

最近になって、また時々書店に足を運ぶようになった。10代のころはほとんど毎週書店に通っていたし、20代の前半ぐらいまではひと月に数回、ほとんど義務的ではあったが赴いていた。20代後半からここ最近までとんと行かなくなってしまっていたけれど、これといった明確な理由もない。アウトプットに重きを置いていたからだろうか。私生活が充実していたから? 自覚もなかったけれど、きっと余裕がなかったのかな。そういや昨日は”なぜ働いていると本が読めなくなるのか”ってタイトルの新書を買った。まだ序文すら読んでいない。

身体性を伴う体験には偶然が転がっているように思う。それに価値を感じている。だから書店には価値があると思う。ネットだとほしいものや読みたいものにしかアクセスできないから、偶然がない。タイトルや表紙から滲むなんらかを感性がピンと察知する。それからスタタと近寄って、その偶然を手に取るときのあの感じは、きっと身体を伴わなければ再現不可能だろう。書店とは偶然との邂逅の場である。言葉遊びはたのしいね。

さっき、ハン・ガンの"すべての、白きものたちの"を読み終えた。散文詩のような小説だったけれど、なんだか読後は少し胸が重い。"だれかにあたたかさをあたえるには、まずそのあたたかさを所有しなければならない"。この言葉はひとつの真理だと私は思う。元気も幸せも愛情も、すべてそうだと思う。そしてそれを獲得する手段は、ただほかのだれかからそれを無私に、また無条件にあたえられた経験を以てでしかありえないだろう。いのちあるものは、みなだれかに無条件に愛されてほしいし、そのあたえられた愛によってだれかを愛する義務があるのだと思うのだけれど、どうだろね。

20代の頃は一丁前に物書きになって飯が食べたいと思っていた。編集を学ぶ学校や、小説を書いては読み合うような学校に通ったりもしていた。大してなにかが身についた気もしないし、それでいま生活もできていない。現在もなおその道に向かって走っているかと問われると、まったく違う。それを切望する自分は、はっきりと過去になっている自覚がある。夢半ばと呼ぶに値しないほどの情熱しかなかったのかもなあとも思う。アルバイトで稼いだお金を元手に夜行バスに乗って面接を受けに行ったりもしたっけ。そうして二度と手に入れることもない新卒切符を不意にした。後悔はあまりない。それは”そういう夢にがむしゃらに向かう自分”でいたかったからなのかも。そうやって自分で自分を消費していたんだろう。そのサイクルは完全に自己のみで閉じていたから、だから最後まで他者に評価されることはなかった。当然のことだ。けれど、その無駄を愛せずにいることはあまりに自分がないとも思う。成功を成功たらしめるのはいつだって外部要因でしかない。"それは敗北者のたわごとだ"と成功者は言うだろう。しかし本来"成功"なんてものは、そんな一辺倒な結果ではないのではないか。もっと自由で、個々人に委ねられてもいいものだと思う。その人が納得できるなら、折り合いをつけられるなら、どのような結果であっても、それはその当人にとっては"成功"と呼んでよいものであってほしい。消費を促す社会の要請を真に受けて、あまり自己を社会に都合よいかたちに消費していてもつまらないじゃないか。とはいえ我々社会人、そこのバランスは難しいですわな。

ひさしぶりに歩いて通勤した。片道約4キロ。消費カロリーにして約300キロカロリー。菓子パン1個分に満たないと思うと、涙がつうと頬を伝う。歩いては通ったことのない道を早歩きで歩いた。だしの香りが漂ううどん屋さんや、めちゃくちゃオリジナリティに溢れたサンドウィッチばかりを販売する喫茶店を見つけたりした。昔ながらの駄菓子屋さんも見つけて"エデンはここにあったのか"とたいへん胸躍った。
お昼休みをはさんで、終業まであと2時間を切った頃合いで、やはり小腹はぐうと鳴ります。そこで私は昼休憩の際に寄ったコンビニでコーヒーとともに買ったミルクフランスをかじっていたわけなんですね。食べながらぱっとカロリーをみると、そこには"350キロカロリー"とあった。私はここでひとつの仮説を立て、向かいで真面目に働く先輩に問うた。すなわち「このパンを食べながら帰り道を歩いて帰ったとき、わたしはこのパンを食べていないことになるのか」。先輩は爆笑しながら「カロリー面で考えるなら、たしかにそうかも」と言う。ならばと私は「しかしわたしはこのパンを"食べた"という経験はたしかにしたという自覚は持つだろうし、味も感じている。これはどう説明するのか」と続けた。また「そのカロリー相殺すなわち帳消し説が成立するならば、逆説的に私は歩いたことにもならないのではないか」と問うたのだ。"パンを食べている"と”歩いている”がどちらも成立しているのに、その両方が常に持つ"カロリー"のみ存在しない状態。身体的事象を”存在するもの≒実数”とし、カロリーという概念的事象を"存在しないもの≒虚数"と仮定する。これらから導き出せる結論として、言うならば私はあの五条悟と同じ”虚式茈”を発動できる状態だったと言える。全然間違えているだろうが、文系なので許してほしい。先輩は「仕事しろ」と私をたしなめた。

最後に自慢をひとつだけ。11月最初の土曜日、ITパスポートの試験を受けた。約2ヶ月振りのリベンジである。前回のような舐めプはかまさず、今年のテキストをちゃんと買って勉強した。結果は見事7割の得点。晴れて私は"最も取らなくてよい国家資格を所有するもの"と相成ったのである。敬え。

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