自分ラブコメ

俺はラブコメ漫画が好きである。彼女できた事ないのに。

ラブコメ漫画が好きな自分にラブがない事を憂いていたら、友達に「愛されないんじゃなくてお前が愛さないだけでは?」と言われた。たしかに。

俺はみんなが好きだ。俺と関わる人の大体全員。喋るけど嫌いなやつは関わってるうちに入らないと思っているので、仕事でもない限り自然と関係消滅してる。だから俺の交友関係は俺が好きな人しかいないし俺よりすごい人しかいない。俺が好きだと思う人の基準に「尊敬」があるから、自分に持っていないものを持ってる人を好きになる。

でも、そんなみんなより好きな人がいる。自分である。なんでかわかんないけど、別に尊敬すべき点はないけど、自分が好き。

俺はみんなが好きだけど、それは平均的に好きなだけであって、個人としては見ていないのではないだろうか?友達という概念が好きで、その概念に触れている自分が唯一、特別に好きな存在なんじゃないか?と思った。

そうなると自分が愛されないのではなく愛してないというのも納得が出来る。皆のことは好きだけど、それ以上に俺が好きだから。俺のラブは俺へのラブでいっぱいだから、それ以上を他に向けていないのかもしれない。

自分のやる事が愛おしくてたまらない。どんな飯食っても美味しい方向にしか味の違いを感じないのも、どんなに嫌なことがあっても寝たら嫌な気持ちの部分だけ綺麗さっぱりなくなるのも、どんなとこでもすぐ寝ちゃうけど一度頑張ればずっと起きてコツコツ頑張れるのも、他人の目をあんまし気にせずマイペースに振る舞えるところも、みんな好きである。失敗したってドジな自分を笑えるし、予想以上に実力を発揮できた時なんかはキュンとする。

でもこれって、自分の人生が他人事だからかもしれない。自分の感情に無頓着だから自分の事が好きなのかもしれない。
ラブコメ漫画だって、「好き」っていう特大の感情を、作者と編集の数人のみで操っている。狂気の沙汰である。しかも自分ではないキャラクターの心情を「こうしたら面白くなるかも」とか考えながら弄んでいる。俺もそれに近いのかも。自分の感情に対して他人事で、弄ぶために感情に触れているのかもしれない。

俺はラブコメ漫画なのかもしれない。もう少し自分の人生に自信を持って、感情の所在を確かめるべきなのかなと思った。前にもこんな事考えてたな。

と、ここまで書いたが、やっぱり皆の方が好きだと思った。自分のことももちろん好きだが、じゃあ友達や家族の全員が死んでしまったらどうなるかなと考えると、多分自殺すると思うからだ。
俺の俺への好きは、俺を形作る皆がいるから出来ている。ひとりぼっちになって尚自分が好きならこんなに友達は出来なかったと思うし。皆かけがえのない人達だ。
そう考えると、俺が個人的にラブを向けてるのって誰なんだ。マジでいない。分散的に友達へのラブの矢印を向け、友達というフィルターを通した後に、散らばった矢印を集約させたラブを自分に向けている。

いつか友達も、自分すらも通さずに一直線のラブを向ける人が現れるのだろうか?そうなると、みんなに向けている矢印は消えるのだろうか?どうか消えないでほしい。好きな人に向ける、特別な矢印を作り出せるようになることを切に願う

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