「フロリダ・プロジェクト」を観た。
日本では2018年に公開された、映画「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」という作品。私はこれが公開された当時、ポスター綺麗だなあ、内容は”苦しいながらも親子で毎日楽しい日々を送っていく”…そんな感じかしら、なんて考えていた。あるあるだけど、ポスター綺麗だし機会があったら観に行こう…と。しかし結局映画館で観ることができないまま近所の映画館では公開終了し、最近Amazonプライム対象作品になったため、今日やっと視聴することができた。
(出典:https://klockworx.com/movie/m-406058/)
見終わり、エンドロールが流れ、映画がおわったあと、考えなければならないことが多すぎてどうすりゃええねんと思った。なんなんだホント。勘弁してくれ。考えるのは好きだけど文章にすんのは苦手なんだクソッタレ。
と、いうことで、私は言葉に表せないなんとも言えない感情を落ち着けるべく、こうして文字を打っている次第である。よかったらお付き合いください。
まあ、何について述べているかというと、簡単に言えば「子ども」、「幸せ」についてです。
しかし私は文を打つのもそんなに得意じゃない上に、ただ思ったことをつらつらと述べていくだけなので、その辺はご容赦願いたい。ではいこう。ネタバレがあるから、これから観る人は注意してね。
1 .ラストシーンから私が思うこと
まず多くの人が述べているラストシーンについて。ラストシーンはこうだ。
児童家庭局がヘンリーのもとを訪ね、ムーニーは母親であるヘンリーと引き離されることを悟る。モーテルを飛び出し、ジャンシーの家へ尋ねる。「どうしたの?」と言うジャンシーに対し、「もう会えないわ、理由は…理由は、言えないの」と涙を流すムーニー。そんなムーニーを見てたまらなくなったジャンシーはムーニーの手を取り、いつもは決して行けない、すぐ目の前にそびえ立つディズニー・ワールドへ連れて行く。何も話さず、ただ走り、走り、走り続けた最後には、2人の目の前にはシンデレラ城が。
現実的な苦しみ、辛さが描かれてきたこの「フロリダ・プロジェクト」のラストシーンが、子どもの夢あふれる行動だと誰が思っただろうか。かつての「万引き家族」を思い出してほしい。彼らの物語は、あまりにも現実的であり、ラストも非常に自然で、そうなるよな、なんて思ったりした。そうした作品の世界観は、世界から称賛された。いい作品だったな…。
しかしこの「フロリダ・プロジェクト」という作品は、ラストを夢心地な気分で〆るのである。少なくとも私はそう感じたし、一気に子ども時代を思い出し、子供という存在の尊さに胸がキュッと苦しめられた。
2. 子どもってすごい
私がこの歳になって思うことは、良くも悪くも、あまりにも多くを知りすぎると、子供の頃のような心からのワクワク、ドキドキ、素敵なイマジネーションを抱く感覚なんかは、2度と戻ってこないということである。
1人の人間が、何か素敵なことを思いついたとしよう。例えば…"秘密基地を作りたい"。そして、ちょうどいい空き地を見つけたとしよう。今の私なら、その空き地が誰かの私有地かもしれないこと、なんらかの理由で立ち入り禁止かもしれないこと、とかいろいろ考えることができる。今この文章を打っている間もめちゃくちゃ心が冷めてしまった。つまらん。無視して作りてえ。
しかし子どもは、そんなことも考えずに無我夢中で取り組むだろう。羨ましい。羨ましすぎる。その好奇心からの行動力は、子どもだけの特権だ。こうした行動力と好奇心を決して大人は潰しちゃあいけない。
でも、この中でもきっと「ここはダメだよ!」と考える子もいるだろう。そして、大人は「ここはダメだよ!」と考えた子どもを称賛する。ちゃんと考えて行動できたね、えらい、と。そして無我夢中で秘密基地を作った子どもを「なぜよく考えなかったのか。」と責める。私はこの現象が奇妙で悲しくて仕方がない。いろいろ考えて、無我夢中で秘密基地を作ることは、いけないことなのか。そんなことない。いいじゃない、ステキな発想じゃない。場所が悪かったのなら「ここは場所が悪かったね」とだけ言えばいい話なのだ。
勘違いして欲しくないのだが、私は、この場合はどちらの子どもも称賛されるべきである、と考えている。よくよく後先のことを考えて、「ダメだ」と考える子どももすごい。無我夢中になって秘密基地を作る子どももすごい。どちらも自分なりの考えを持って言動している。そのこと自体が素晴らしいことであり、称賛されるべきなのである。
少し話が反れた。長くなってしまったが、私が言いたいのは、ジャンシーの最後の行動力は本当にステキなもので、同時に辛いものでもあるということだ。ステキなものである理由は前述したとおり。辛いものであるというのは、"子どもは大人の事情に振り回され、それは現代の社会では避けることのできないものである"ということ。それについて、現在の社会事情を交えて思うことを下に少し述べる。
3. 身勝手な大人
いつだって大人は身勝手だ。子どもはそれに振り回される。子どもの意見は聞こうとしない。
以前、ETV特集で、"7人の小さな探究者たち"という、このコロナ禍の今を小学6年生がどう過ごしているか、子どもたちの対話・討論を追いかけるドキュメンタリーが放送されていた。詳しくは各々で調べてみてほしい。
あるワンシーンの話だ。小学6年生である彼ら彼女らは、6年生を送る会の最後に突然「休校」を言い渡されていた。ニュースで話は聞いていたが、実際に彼らのその瞬間は初めて見た。その時の彼らの表情は忘れられない。辛すぎて夕飯の時、見ながら涙が出た。泣きながらマグロ丼を食べた。
6年生を送る会のあと、彼らはこう話をしていた。「子どもの意見は聞いてくれない。」「大人になりたくない。」「ちゃんと子どもの話を聞いてほしい。」
ムーニーと彼らの置かれる状況は全く異なるが、思う感情は一緒だ。大人は身勝手。大人はわかっていない。なんで。私もそう思うことの多かった子どもではあったが、大人になってみればまあわかる、理論的には大人が正しいってことを。むしろ大人の言う「大きくなればわかる」に同意をしまくる。しかし、子どもの気持ちが蔑ろにされる、と言う現状はどうにも腑に落ちない。
4.幸せの価値観
上記の3と少し関連する、と思って読んでほしい。私は「大人は、子どもが将来1人で立派に生活していけるために、何らかの手立てをする義務がある」と考えている。その点から考えればヘイリーはどうしようもなくダメダメな最低母親だ。仕事もせず、詐欺をし、違法ドラッグをし、おまけに売春をする。子どもをもつ母親として、許されることではない。私もそう思う、その気持ちは決して変わらない、変わらないのだが、映画の中でムーニーは、母親と過ごす毎日を、心から楽しんでいるのだ。大雨の中、ヘイリーとムーニーは外で大はしゃぎしているのである。これ以上の幸せがあるだろうか?母親と子どもが2人で大笑いしている。これこそ本当の幸せなのではないだろうか。
ムーニーからすれば、母親と詐欺香水売りをすることも、メープルたっぷりのワッフルを食べることも、何もかも楽しいし、サイコーの日々なのである。そんなムーニーからしたら、児童家庭局のゴミ野郎どもなんか、クソ食らえだ。ふざけるな。私は不幸なんかじゃない。クソ野郎どもめ。…しかし、そうはいかない。ムーニーの将来を考えれば、児童家庭局の行動は100%正しい。でもムーニーの心に寄り添うなら100%間違ってる。これはあまりにも難しく、この先も一生解決のできない問題なんだと思う。これはいわゆる児童虐待、ネグレクトに関しての話とつながってくるわけだが、ここからさらに話を広げていくと長くなるため、また今度noteに書くとしよう。
5.おわりに
この映画は考えなければならない様々なことについて考える時間をくれた。私は、映画のそういうところが好きだ。いろんな視点で物事を考える機会をくれる。いろいろな世界に連れ出してくれる。
映画を観ている間は、精神は映画の世界にいるため何も考えられない。今までは、あとからあとから、いろんなことについて考えて一人で考察していた。
いつもそんな感じで映画を観ていた私だが、今回初めてこうして文章を作成してみた。終わったあと、自分の考えていることがどんなことなのか、文章にすることなんてほとんどなかった。しかし、こうやって文章として残すのって、自分の考えていることが明確になるし、いいな、と思った。今後もやっていきたいな。
「フロリダ・プロジェクト」に関して、たくさんの考察サイトがあったので、今からそれを読んでいこうかなと思う。やるべきことは終わっていないがな!!!最高の映画だった。ありがとう、フロリダ・プロジェクト。