「もう好きじゃないよ」ってどういう意味?【才の祭小説】
雪の降る街を一人歩きながら、溢れる涙を拭う。かれこれ20分以上止まらないそれは、頬に触れて溶けていく結晶よりもずっと温度が高いはずだった。そのはずなのに、つうっと流れては流れるほどにどんどん冷たくなっていく。衝突したのは他愛もないことだった。彼が私たちの関係を否定したのだ。それは私が最も言われたくない言葉であって、過去に最も傷ついたことだった。
足早に通り過ぎる駅前。行き交う人たちは誰も私のことなんか見ていない。それもそのはず、もうすぐクリスマスということで室内にはたくさんのオーナメントが飾られている。みんなが大きなツリーを見上げている。その中には写真を撮っている人もいた。
ちょうど目くらましになるかと思い、そのツリーの根元のあたりに腰を下ろす。コートもはおらずに飛び出してきた手前、寒さに身が凍えそうだ。駅ビルの中に入ったので、少しは暖かくなった。このままカフェにでも入ろうかと思ったが、とりあえずその場でスマホを覗いてみる。
(着信なし、LINEも来てないか)
マスクの中でこそっと呟き、私はスマホをすぐにバッグの中にしまい込んだ。なんとかバッグだけは持ってきていてよかったと思う。彼のようにデニムに直接スマホをねじ込むということは、とてもじゃないけど私にはできないからだ。そうして先ほどから脳裏で繰り返し反芻しているのは、彼の言葉。
『もう好きじゃないよ』
何とか泣き止んだ手前、もう泣きたくないので涙をこらえる。鼻の奥がつんとしたのは、たぶん泣きそうだからではなく寒さアレルギーのせいだなんて自分を無理やり納得させようとする。少し前から一気に冷え込んで冬になったと感じていた。駅ビルの外を見つめる。空はまだ薄暗く、白いものがちらついている。
確かに今の彼に対して、昔浮気されていた元彼にこの言葉を言われて振られたことは言っていない。だけど知らないならしょうがないで済む話でもない。付き合っているのに言っていい言葉でもないと思う。ひどいよ…。私は人通りの多い駅ビルの通路で、長い間一人きりでずっと俯いていた。
きっかけは、単純に彼が私との約束を破ったということだった。出かける予定だった日に友達との予定をいきなり入れた。それは遠い地元から上京してくることになった親友と久しぶりに飲みたいというものだった。さすがに断れないし許してと言ってくる彼を、私は自分が子供っぽいと自覚しながらも許せなかった。
何故ならそれは二人にとっての記念日のディナーの予約を既に入れた日だったからだ。しかも、それは明日。つまり店側に対してもドタキャン。接客業の私にとってそれがどんなに迷惑なことなのかもわかっているし、つい強めに彼を責めてしまった。
あてつけのような理由だと自分でもわかっていた。すると彼は珍しく言い返してきて、数分の口論の末に先ほどの言葉を口にした。怒声ではなく、静かに。そのことが私に元彼とのことを思い出させた。元彼も感情的に怒らない人だったのだ。
くすんくすんと鼻を鳴らしていると、突然目の前に白い毛糸の生地が現れた。どういうことかわからないのでとりあえず無視していると、「ああもう」という声とともにふわっと首周りに暖かい感触が触れる。その声で彼だとわかったけど、今更顔を上げられないので私はそのままでいた。続けてコートをがさっと掛けられる。きっと私が寒くなってくると着ているあのダウンジャケットだ。
「なあ、まだ怒ってるの?」
「知らない」
「…ごめん。悪かったよ。だから顔上げて」
「言っていいことと悪いことがあると思う」
「じゃあ言う。ちゃんとまだ好きだよ」
私ははっとして顔を上げた。ちゃんとまだ好きだよっていうのは、つまり「もう好きじゃないよ」の打ち消しっていうことだと気付いたからだ。感情的に言ったわけじゃないから、自分の言ったことをちゃんと覚えている。そういう責任感のあるような、それでもうっかりたまにひどいことを言うような、よくわからないバランスの彼だった。
「やっと顔上げたな」
「えっと」
「今回のことは俺が一方的に悪い」
「…そうだよ」
私はそれでも目を伏せて、呟いた。すると彼は私の手を引いた。急だったので少しだけ転びそうになりながらも、歩き出す彼のあとについていくしかなくなる。彼はどんどん駅ビルの内部に向かって歩き出し、真ん中にあるエスカレーターに私を乗せた。
「ちょっと、どこ行くの」
「すぐわかるって」
向かったのは最上階だった。一つ下の階とここにはレストラン街があって、最上階の方がよりお値段もいいお店が集まっている。ここまで来れば私もなんとなく彼の思惑が読めてくる。何も言わないけどなんとなく期待もしてしまう。今日は二人が付き合って1年の記念日前日で、こういう高級レストランってなると、まさか…。
「こんなところに連れ出してどういうつもり?」
「実は今日の『もう好きじゃない』の本当の意味なんだけど」
「え?」
「好きじゃないって、悪い意味の方じゃなくて」
「どういう意味か分からないよ」
「だから!好きっていう意味の最上級って言ったらわかる?」
かっと怒ったような顔をした彼を見て、その耳の赤さを見て私は全てを理解したような気持ちになった。同時に私自身も急激に体温が上がったので一気に熱くなる。マフラーを慌てて外して、かあっと赤くなった顔を隠したくて俯く。
そう、彼はその言葉を今まで恥ずかしがって一度も言ったことがない。なので半分もう諦めていた。言っても「好き」っていう言葉までで、それ以上をまだ言うつもりがあることを私は知らなかったのだ。とするとつまり、あれは全然ひどい言葉ではなかったことになる。
「ごめん、どういう顔したらいいかわからない…」
「いや、俺こそごめん。いきなりで…」
「なんで今ここで言うの」
「本当はあのあとすぐ言うつもりだったんだけど、ぱっと出てっちゃったから」
「けど、なんで喧嘩中に…」
「友達より大事だって伝えたくなったんだよ」
相変わらずよくわからないバランスの彼だと思いつつ、テーブルに用意された水をごくごくと飲んだ。ちらりと彼を盗み見しようとすると、彼はこっちを見て笑っていた。つられて私も笑えてくる。周りにお客さんがけっこう入っているので、二人で声を抑えて笑った後に私はふっと息をついた。
「ありがとう」
私が言うと、彼は「俺こそ、ありがとう」と返してきた。だけどきっと彼は本当の意味には気付いていないだろう。彼が溶かしたのは先ほどまでの気まずさではない。長年私の心の中に凍っていたものだった。もうこの氷は溶けないと思っていた。ずっと、誰にも言わずに共存していくしかないと考えていた。
元彼と彼は同じ言葉を使っていたのに、意味が全然違っていた。日本語って面白い。乗せる想い一つで、全然響きが変わっていく。少し調子を取り戻した私は、テーブルに身を乗り出して小声で彼にささやくように言う。
「いつ言ってくれるの?」
「うーん、さすがにここでは無理だな」
「帰ったら?」
「そうなるけど、なんか改めて言うとなると緊張が」
「じゃあ私も言おうか」
「それがいい!」
ようやくたどり着いたメイン。正直あまり味がわからない。空になったグラスにもう一杯足してもらおうとすると、外側についた雫がつうっと垂れてテーブルクロスにシミを作ってしまった。そのことを少し気にしていると、彼がさっとグラスを掴んでテーブルの真ん中に置き、ウエイターを呼んでくれた。その場に残る水滴はすぐに乾いていった。
あの五文字が聞けるまで、あと一時間。