あなたのそこがカワイイ。だからあなたは愛される。(理論編)
「モテる」と「愛される」は違うよ、っていう話をしたいと思います。
人が幸せになるための要素として、経済、健康、自由・・・などがあると思いますが、やっぱり「人間関係」は大切ですよね。そして人間関係の中でも、私達が一番求めている永遠のテーマは、やっぱり「愛」ですよね。
あなたも私も、そしてみんなも「愛を得たい!!」と思っていて、人間社会の歴史あるところに「愛の歌」あり、といったような感がありますが、今私たちが生きている問題として問います。
あなたは愛されていますか?
「う~ん、私は愛が足りないな・・・」と思っているあなたにこそ、読んでほしい。そう思って、今この文章を書いています。
私が好きなYouTubeチャンネルに、『山田玲司のヤングサンデー』というチャンネルがあります。
山田玲司さんは『Bバージン』『ゼブラーマン』などを手掛けた異色の漫画家であり、その体験で培われた見識を生かして、YouTubeやニコニコ動画でカルチャーや社会の本質をわかりやすく楽しく語る、ということをされている方です。
その中で最近(2021年10月18日)、無料で全編公開されたのが以下の動画です。
こちらのステキなサムネイルにあるように、タイトルは
「モテる」と「愛される」の違い~愛されないイケメンを作ったもの~
です。
この違いに着目するあたり、めちゃめちゃ鋭いと思いませんか?
ここに、愛されたいのに愛されないヒントありです。私たちの頭の中では、「愛される」ということと「モテる」ということが、入れ替わっているのです。
Q1:真に豊かな人間関係って、どんなものだろう?
この動画のなかで山田玲司さん(以下、「レイジさん」に統一しますね)は、愛よりも「モテること」を大切にしている日本の風潮を「モテ信仰」と呼び、その危険性に警鐘を鳴らしています。
レイジさんいわく、私たちには
「モテる人に価値がある」
という思い込み、あるいは価値観があると語ります。
「モテる人に価値がある」という価値観は、学校でたくさんのバレンタインチョコを受け取ったヤツがすごい、というような価値観です。「たくさんの注目を集めた人がエラい」ということでもあります。
このような価値観を植え付けられると、私たちは「異性との人間関係」を、だんだん、
「数」と「質」
で見るようになってしまいます。
「数」というのは、「たくさんの人に恋愛対象として人気がある」ということですし、
「質」というのは、「美人、イケメン、あるいはどこどこの御曹司」といったような「ステイタスの高い人にモテる」ということです。
う~む、量と質で人間関係を計測する人を特に否定はしませんが、果たしてこれは豊かな人間関係なのでしょうか?私自身は、その人の数と質を担保するための道具だと見られたら、もちろんいやですけどね。
でも世の中には、いわゆる「イケてる」誰々君と付き合ったとか、経験人数は何人だとか、そうやって数と質を自慢したり、それが少ない人にマウントを取ってくる人もいるのですね。
さぁ、ここでクエスチョン2です。
Q2:愛は勝ち負けなのか?
人間関係を数と質と見て、それを集めようとする考え方は、「自分は県大会1位の実績がある」とか、「成績優秀者にだけ渡される賞状をたくさん持ってる」とか、そういうことを自慢する考え方と同じようなものです。
それはつまり、異性を「トロフィー」として見ているということです。
今の日本では、多くの人が異性をトロフィーとして見ているのでしょうか。男と女は、お互いをトロフィーとして見ているのでしょうか。
「自分にはトロフィーとしての価値はあるのかしら?」と思っている人も多くいることでしょう。
なぜなら、本当は無条件で愛されていいはずなのに、素の自分に自信がないから、「ミス○○」とかになって自分のステイタスを高めて、そうやって完全武装で愛されようとする、そういった人がたくさんいるからです。
自分を、受け取るに値するトロフィーに磨き上げよう。その意気やよし、という感じはしますが、それは自分自身を「モノ」に見立てちゃっている、ということです。
「私」はあくまで陳列棚に並んでいる一個の「モノ」なので、他人から選んでもらえるように価値を高める、そんな世界観が、あなたにもできてしまっているのかもしれません。
・・・ここまで、ちょっと私の言葉で語っちゃっている部分も入っていますが、大筋はレイジさんの動画で語られていることでございます。
ここで、日本人が自分や他人を「モノ」として見てきた「クロニクル(歴史上の出来事を年代順に表すこと)」を見ていきましょう。この「クロニクル」はレイジさんの得意技です。
自他の「モノ化」の例としてまず思い当たるのは、「嫁を”もらう”」という言葉でしょう。「一人前になったのだから、嫁でももらったらどうか」なんていう言い方が、昔あったそうですね。
例えば「家」というものが現代よりも大きな価値を持っていた戦国時代なんかには、武将同士がお互いの関係性を安定させるために、「政略結婚」といって姉妹や娘を嫁に行かせていました。
また「家」の観念が薄くなった近代以降も、貧しさに耐えられなくなった娘を売る・・・なんていうことがありました。
このような出来事は、貧しかった時代においては、やむを得ず、涙をのんでもそうしなければならなかったという事情もあったことと思います。ですから、政略結婚をさせた男、あるいは娘を売った親を責めるわけにもいきませんし、そういう人生を歩まざるを得なかったすべての女たちは、次の人生ではうんと幸せであってほしいと思います。
しかしながら、こういったことが行われていた背景には、女を「モノ」として見るという意識があったことは、間違いありません。
自分や他人を「モノ」として見るクロニクルは、こんな辺りからはじまります。
このクロニクル、大変興味深いため細かく見ていきたいところではありますが、詳しくは動画をご覧いただくとして、先に進みましょう。
日本が豊かになった80年代には、「いうても金でしょ。見た目でしょ」という、レイジさんの言葉を借りれば「ぶっちゃけルッキズム」が生まれてきました。先ほども触れましたが、最近はミス○○とかになって「自分ブランドを高める」ということに精を出す人も増えていますね。
つまりこれは、「"モノ"である私」の、「"モノ"としての価値」を高めるために、評価や実績を求める生き方をする人が増えてきた、ということです。
「いうても金でしょ。見た目でしょ」という考え方は、「愛こそはすべて」的な理想論を論破(この「論破」も貧しい関係性をつくる行為ですね)するに足る強さを持っているため、だんだんと多くの人の脳髄に浸透していきました。
金や見た目、ステイタスという「外」にあるものを土台にして、男と女の間に愛は育まれるのか。いやそんなことはないよね。もちろん例外はあると思いますが・・・
こういった、「モノとしての自分の価値を評価される」ことへの反動として、「本当の自分を愛して」ということを主張した歌がどんどん増えていったそうです(浜崎あゆみを筆頭に。私はあゆはあまり聴いたことがないのですけどね)。一時期のJ-POPはほとんどそれになったくらいだそう。ディズニーでもありますね。
そんなこんなで「金さえあれば」とか、「愛はもういいよ(肉体だけの関係でいい)」とか、あるいは恋愛を放棄して「同じような人と一緒にいればいいよ」などといって、男と女が互いを理解することなく、むしろ分断が深まっていった・・・レイジさんはこのように分析されています。
ちょっと整理しましょう
「モテる」と「愛される」は違うよ、ということではじめたこの文章。
テーマに立ち返ってここまでを振り返ると、「モテを目指す辛さ」、これを感じるのではないでしょうか。
さて、すべての人は、自分の中に「価値基準」を持っていて、それをもとに物事を判断し、世界観を形づくっています。では、
「自分の"トロフィーとしての価値"を高めて、愛してもらう」
という考え方の人の、価値基準はどうなっているのでしょうか?
実はこの人たちの価値基準は、自分の本心とは関係ないところにあります。
なぜならこの人たちは、「他者からの評価」を第一の優先順位にして判断しているからです。
他人からどう見えるか、他人に対して恥ずかしくないか、他人に対して優越しているか。
そういった基準で生きているために、判断基準を他人に委ねてしまっているのです。
もちろん、常に彼氏のいいなりになっているとか、母親の意見どおりに生きようとしてるとか、そういうことではありません。
この人たちは、小さいときから、「他人が欲望すること」を敏感に察知して、それをあたかも「自分の欲望」であるかのように錯覚する、そういう訓練を無意識のうちにしてきたのです。
親の欲望だけではありません。友達の欲望や、あるいはテレビの欲望なんかも自分の欲望として内面化していきます。
だから、「自分の好き嫌い」よりも、「他人の好き嫌い」を基準に人生を設計するようになってしまうのです。
私たちは、人生のどこかで、他人の評価基準を自分の内面にインストールします。そうしないと裸で渋谷のスクランブル交差点に飛び込んでしまう人間になりかねず、社会で生きていけない部分もあるので、仕方ありません。
しかしながら、愛が出て来るのはどこかといったら、それは「自分」しかありません。
それなのに、自分という基準を完全に捨ててしまっている人が多いのです。
そうするとどうなるでしょうか?これってちょっと、ゾンビ映画で、ゾンビにかまれた人が、体調が悪くなってきて、だんだんと自我が消えていき、最後にはゾンビになってしまうという工程にも似ている気がします。
私たちはもちろんゾンビにはなりませんが、「自分」というものを捨ててしまったら、もう違う世界に行ってしまいます。
・・・ほら、その世界の看板が見えるでしょう?そこにはこう書かれています。
「ようこそ、人間関係を損得で計測する国へ」(笑)
Q3:豊かな人間関係は損得勘定で得られるのか
人間関係を「評価」を基準に判断してしまうと、
「この人は、付き合う価値があるんだろうか」
とこういう目線で他人を観るようになります。
これはもちろん、「他人から見て自分は付き合うに値するトロフィーなんだろうか」という考えの裏返しです。
損得勘定で人間を見る、というのは、仕事上の人間関係に例えて考えるとわかりやすいかもしれません。
「”自分ブランド”を持っている人」「技能を持っている人」「人脈がある人」「自分が就職したい企業に関連する人」
だいたいこの辺りの人と出会いたくて、ビジネス版マッチングサイトに登録したり、ちょっとしたパーティーに行きますね。
もちろん、仕事でこのような関係性が必要なこともあるので、それ自体は否定しません。
というか、仕事は仕事で、技能のある人や、人と人をつないでくれる人は必要ですし、それが大きな仕事につながってたくさんの人を助けることにつながるかもしれないのですから、バリバリ行きましょう、という感じです(日本人は仕事のマイナス面を誇張して伝えすぎですよね。これについてはまた別の機会で)。
しかしながら、プライベートでも「評価」をベースにして人間関係を見だすと、だいたい以下のような感じに、人を分類しはじめるでしょう。
付き合うべき人間のプラスとマイナスの表があるとして、そのプラス側にあるのは、
「金を持っている人」「人気のある人」「社会的地位の高い人」「性的魅力のある人」「おもしろい人」
マイナス側にあるのは
「金のない人」「容姿の悪い人」「おもしろくない人」「社会的な地位の低い人」
こんな感じですかね。
評価ベースの人のなかでは、人間がこのように区分けされているので、プラスに位置づけた人と積極的に交流しようとします。
その一方で、「とっても優しいけど仕事はあまりできない人」は評価をベースにした人間関係からは弾かれてしまいます。
特に学校が分かりやすいと思うのですが、学校では人間的な魅力を伝える機会があまりなかった人(学校が評価するものは、勉強か運動がほとんどで、芸術活動は受験に役立たないのでほとんどすごさが伝わりません)は、簡単にマイナスに位置づけられてしまいます。
仮にその人が、めちゃめちゃ性格が良かったとしても、目立てない時点で機会はないのです(わざわざnoteでこの文章を読んでいるということは、あなたもめちゃめちゃ性格が良いのでしょうね)。
確かにある程度の積極性は必要だとは言えます。しかし、学校の生活スタイルや評価軸の中では、そもそも積極性を発揮する「機会」さえ与えられないことも多いのです。
別にそれでいじめられるとかではないと思いますが、バレンタインデーのときには、チョコはほとんどもらえないか、あるいはまったくもらえません。
別にそれがどうしたという感じなのですが、バレンタインデーにたくさんチョコをもらった人=えらい人の構図ができあがっているので、「チョコをもらえなかった自分(=モテない自分)には価値がないんだ」と思い込んでしまい、それが人生の後々まで尾を引くことになるのですね。
ここに、モテの「量」の問題が出て来ました。当然、数字と量で計りますね。なぜならここは、「人間関係を損得で計測する国」ですから(笑)。
でもですね、でもですよ!モテの量や質を究めて、首尾よく異性と付き合えたとします。でも、そこに愛はあるんか?と言われたら、そこに愛はないわけです。
だって、「この人と付き合ったら自分の価値が証明できる」という、損得しかないんですから。
付き合ったら、結婚したら、損得よりも愛や人間性です。むしろその状態で損得を続けられる人は、鋼の精神の持ち主で、すごいです(笑)。
人間一緒にいる時間が長くなったら必ず心に隙ができます。そうしたら、損得で見ているうちには見えてこなかった、相手の「素の部分」が、目に、耳に、そして全身心に飛び込んできます。
そのときに、各々の人間性が露呈します。「価値を高めること」ばかりしてきて、「愛すること」をしてこなかった人。あぁ、その浅ましさ・・・。お互いに幻滅し、幻滅させ合って、ケンカばかりするか、冷え切った関係になるか、さっさと別れるか。もうその道しか残っていません。
損得の世界の人は、別れた後に「気づき」を得ない限り、次の損得勘定をするだけです。
この人は、いつまでも「モテる」かもしれません。でも、「愛される」ことは、できないかもしれないですね。
結論を言えば、豊かな人間関係は、損得では得られません。
豊かな人間関係を得るには「損得の国」から抜け出して、「愛の国」に行かなければならないのです。
もうあなたは、「損得の国」に飽き飽きしているのではありませんか?大丈夫、そろそろ思いきって「愛の国」に国籍を変えるときです。シートベルトは締めましたか?
さぁ、愛の国へ、出発しんこ~う!!
(方法編へ続く)
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