ふわふわしたものを抱きしめる
突然だが、noteに存在する「ふわらいま」は、本当の私ではない。ここでは偉そうにぺちゃくちゃしているが、現実世界に自分の思いを饒舌に話す私はいない。私のリアルは黙々とうどんを茹で、インパクトドライバーを握る日々で、同級生たちのようにキャンパスライフを楽しんだり、日付をまたいで飲み会をしたり、なんてことは一切ない。noteを書くくらいなのだから、よっぽど喋るのが好きだと思うかもしれないが、自分はできることなら言葉を発さずに生活していたい。身内や友達では飽き足らず、noteという不特定多数が見る場で自分の意見をひけらかしているように見えているかもしれないが、これは本当だ。
決して喋ることが苦手なわけではない。どちらかというと得意な方ですらある、主観だが。ただ喋ることが好きではないのだ。初対面の人と話す機会もなくはないが、受けは悪くない、と思う。もちろんこれも主観だ。本当のことを話す必要なんてない。特に自分の気持ちは自分にしか分からないから、相手が私の本心を知ることなんて、私が本心を言わない限り不可能だ。
言葉ほど薄っぺらくて、信じられないものはない、と私は思っている。相手に合わせて思ってもいないことを言うなんて当たり前だし、自分以外にもそういう人は多いはずだ。上司をよいしょしたりお世辞を言ったりしているだろう。それが大人になるってことだと、なんとなく思う。そしてもっと近い存在、例えば家族やパートナー相手でも、100%の本心を言わないことがあるだろう。多かれ少なかれ気を使ったことを言っていないか。相手が欲しがっている言葉をかけていないか。
私は言葉を大切にしたい。言葉を信じることができないのに、だ。
どれだけ心の底から言おうと、魂を込めようと、言葉は口から出た瞬間から不完全なものになってしまう。ふわふわしたものを力いっぱい抱きしめるのは難しい。みるみるしぼんで、何も残らないかもしれない。それが求めていたものだったらその分辛いのは自分だ。正直に言うと、怖い。でも抱きしめたい。大切な人たちが自分にくれたそのふわふわした世界一不確かなものを、何の疑いもなく受け取れたらどれだけ幸せだろうか。そして自分の口から出たそれを、大切な人たちが抱きしめてくれたら嬉しい。
言葉は薄っぺらい。「本当」が欠如した不完全なものだ。そして巧みに言葉を操り、信じられないようなことをする人もいる。それは事実だ。いくらでも疑うことができる。しかし、この世界に「本当」なんて自分の中にしかなくて、それを少しでも伝えられる手段が言葉だと思う。
私は、言葉が嫌いだ。たくさんのものを内包した言葉は、そのままの意味ではもはや信じられない。
でも、言葉を大切にしたい。大切な人たちが私にくれる言葉を思いっきり抱きしめたい。
言葉は形を持たず、一瞬で消えてしまう。わざと聞かないこともできるし、聞こえないふりをすることもできる。こんなにも脆く、儚いものがあるだろうか。
しかし、だから、魅力を感じるのかもしれない。
※フォトギャラリーより、イラストをお借りしました。ありがとうございました。